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高井 鴻山(たかい こうざん、文化3年3月15日〈1806年5月3日〉-明治16年〈1883年〉2月6日)とは、江戸時代の儒学者、浮世絵師。 == 来歴 == 葛飾北斎の門人。本姓市村、名は健。俗称三九郎。字は士順。信濃国高井郡小布施村(幕府領・松代藩)の豪農商、高井家十代目の熊太郎(30歳)と母・こと(23歳)の四男として生まれる。 高井家は七代目徳左衛門、八代目作左衛門、九代目長救(ながひら)、十代目熊太郎と代々、営々と酒造業で富を築き上げてきた。この八代目作左衛門が鴻山の祖父で、天明の大飢饉時に倉を開放して、その巨万の富を困窮者の救済に当てた。それが幕府に認められ、高井郡に由来する「高井」の苗字と帯刀を許可された。商売は信州を手始めに江戸、京阪北陸、瀬戸内まで商圏を広げていた。鴻山こと三九郎が生まれた時には、既に長男と次男は死去、三男も僅か9歳で死去していたことにより、高井家後継として周囲から期待されていた。 文政3年(1820年)、鴻山15歳のとき京都へ遊学し、以降16年に亘って書を貫名海屋に、絵画を岸派の岸駒、岸岱親子と浮世絵師の横山上龍に、国学・和歌を本居宣長派の城戸千楯(きど ちたて)に、儒学と漢詩を摩島松南に師事している。その間、文政9年(1826年)に一度小布施に戻り、分家の市村倉之丞の娘かずと結婚した。またこの年、祖父作左衛門が病没した。翌年、妻かずを伴い再び上洛し、漢詩人の梁川星巌に入門、また九条家とも接触する。その後天保4年(1833年)、星巌とともに江戸に移住し、昌平黌の佐藤一斎に朱子学を学ぶ。この時、佐藤一斎門下の佐久間象山や大塩平八郎らとも交流を持ち、鴻山も攘夷論や公武合体論を説いた。さらに蘭学も研鑽した。三年後の天保7年(1836年)に起こった天保の大飢饉に際しては小布施に帰郷し、祖父同様窮民のために倉を開き、これを救済した。 天保11年(1840年)、父熊太郎が病死し鴻山が当主となったが、経営・理財は全く不得意であった。また三十代の頃、上田の活文(かつもん)禅師について禅を学んでおり、葛飾北斎と交遊が始まったのもこの頃であった。そして天保13年(1842年)の秋、北斎83歳のとき初めて小布施の鴻山(時に37歳)のもとを訪れた。このとき鴻山は北斎の卓越した画才を見抜き、自宅に碧漪軒というアトリエを建てて厚遇し、北斎に入門した。北斎はこの時、一年余りも鴻山邸に滞在したという。鴻山は北斎を「先生」と呼び、北斎は、鴻山のことを「旦那様」と呼び合った。そして、弘化5年(1848年)、北斎(89歳)は四度目の小布施来訪時、岩松院の天井絵を完成させている。 その後、文久元年(1861年)には江戸でつくった妾ふじ(20歳)が小布施まで来てしまい、家の中も乱れてしまう。そんな中、妻かずが元治元年(1864年)1月、55歳で没する。その2年後の慶応2年(1866年)には、幕府からの援助要請のままに幕府へ一万両の献金を約束するも、7年延払となる。この年7月、山田温泉へ向かう途中奇禍に遭遇する。翌慶応3年(1867年)には十五代将軍徳川慶喜による大政奉還が行われたことにより、献金の約束も意味を失い、鴻山には借金のみが残ることとなる。さらにこの年、既に文久元年(1861年)に分家していた弟の太三郎も死去してしまう。 明治4年(1871年)になると鴻山は、高井家を息子の辰二に譲り、後妻ふじ、次男孝太郎、三男辰二、兼次郎と別居、その年の秋文部省に出仕となった。翌明治5年(1872年)に67歳で東京府に出仕、私塾の高井学校を開いている。しかし三年後の明治8年(1875年)、遂に家は破産し、明治10年(1877年)秋に高井学校も閉鎖、さらにその翌年、明治11年(1878年)の3月には、小布施の邸宅が大火に遭ってしまう。それでもその翌年の明治12年(1879年)、長野町の旭町に高矣(たかい)義塾を開校する。この頃明治11年(1878年)から明治15年(1882年)にかけて、生活のために村々の神社旗幟を25体、揮毫している。明治13年(1880年)になって軽い中風を患い、徐々に病状は悪化していき、そのまま明治16年(1883年)78歳で死去した。墓所は小布施の祥雲寺にある。法名は耕文院泰賢鴻巣山居士。 絵画については花鳥画や山水画、人物画を得意としていたが、鴻山の作品として特筆すべきは、晩年の北斎の影響が大きい妖怪画の数々である。但し金銭面は弟に任せきりで、金儲けの丁稚仕事には手を出さず、事業家としては無能であり、京や江戸では勉学の傍ら、花柳界で金持ちよ御曹司よと乱痴気騒ぎをし、自ら「放蕩宗」と称して多くの友人を作っていった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高井鴻山」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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