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高仙芝(こう せんし、Gao Xianzhi, ? - 天宝14載(755年))は、高句麗系の唐の軍人。西域で活躍し、タラス河畔の戦いでアッバース朝のイスラム軍と交戦した。 ==生涯== ===西域での奇功=== 高句麗の出身で、父の名は舎鶏といった。容貌が美しく、騎射に長け、勇敢で決断力があったが、父からは柔弱なところがある性質を心配されていたという。父が河西軍に従軍して功績があったので、安西軍に入って、二十歳余で遊撃将軍を拝した。安西節度使の田仁琬、蓋嘉運だったころには名は知られていなかったが、後任の夫蒙霊詧(中国語:)に重用された。 開元29年(741年)、達奚部落が唐に反し、北上し、碎葉城に向かって移動していた。都知兵馬使となっていた高仙芝は、夫蒙霊詧の命令で2千騎で討伐に赴き、追いつき、疲れを見せていた達奚部落を皆殺しにした。同年に、安西副都護・四鎮都知兵馬使に任命された。 小勃律(ギルギット)国が唐に反して吐蕃(チベット)につき、付近20数カ国が吐蕃に与していたおり、田仁琬の頃から三回も討伐軍を出していたが、いずれも失敗に終わっていた。天宝6載(747年)、高仙芝は配下の封常清・李嗣業・監軍の辺令誠ら歩騎一万を率いて討伐に出た。歩兵も全て馬を持ち、安西(クチャ)を出発し、カシュガルを通り、パミール高原に入り、五識匿国(地方)に着いた。 その後、軍を三分して、趙崇玼と賈崇カンに別働隊を率いさせ、本隊は護密国を通って、後に合流することにした。高仙芝たちはパミール高原を越え、合流に成功し、急流のパンジ川の渡河にも成功する。この地で吐蕃軍が守る連雲堡(現在のアフガニスタンの付近にあった)を落とし、5千人を殺し、千人を捕らえた。ここで、進軍に同意しなかった辺令誠と3千人の兵を守備において、さらに行軍した。 峻険な20kmもほぼ垂直な状態が続くと伝えられる(4703メートル)を下り、将軍・席元慶に千人をつけ、「大勃律(バルチスタン)へ行くために道を借りるだけだ」と呼ばわらせた。自身の小勃律の本拠地・城への到着後、吐蕃派の大臣を斬り、小勃律王を捕らえ、パンジ川にかかった吐蕃へ通じる藤橋を切った。その後、小勃律王とその后である吐蕃王の娘を連れ、帰還する。西域72国は唐に降伏し、その威が西アジアにまで及んだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高仙芝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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