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高倉照幸 : ミニ英和和英辞書
高倉照幸[たかくら てるゆき]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [たか]
 【名詞】 1. quantity 2. amount 3. volume 4. number 5. amount of money 
: [そう]
 【名詞】 1. warehouse 2. cellar 3. magazine 4. granary 5. godown 6. depository 7. treasury 8. elevator
: [さち]
 【名詞】 1. happiness 2. wish 3. fortune 

高倉照幸 : ウィキペディア日本語版
高倉照幸[たかくら てるゆき]

高倉 照幸(たかくら てるゆき、1934年12月8日 - )は、熊本県熊本市出身の元プロ野球選手外野手)。
== 来歴 ==
熊本商業高校では2年生の時、中堅手としての春の選抜に出場。1回戦で浜田高を降すが、準々決勝(2回戦)では、この大会に準優勝した鳴尾高中田昌宏投手に抑えられ敗退。しかしこの大会唯一の本塁打を放ち注目される〔「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年〕。3年時はエースとして活躍するが甲子園には届かなかった。高校同期に坂本盛明がいる。卒業時に巨人阪神西鉄ライオンズの勧誘を受けるが、に地元の西鉄に入団する〔『巨人軍 陰のベストナイン』154頁〕。
入団後に野手転向。翌には胸部疾患で欠場した塚本悦郎に替わって、強肩俊足を活かしてレギュラー中堅手となり、からは一番打者に定着する。豊田泰光中西太大下弘関口清治らと形成する強力打線は「流線型打線」と呼ばれ、にリーグ優勝、稲尾和久が入団したからは3年連続日本一という西鉄の黄金時代を三原脩監督の下で築き上げた。には初めて三割打者(.304。リーグ5位)となりベストナイン外野手に選出される。その後、まで主に一番打者を務め、には当時の日本プロ野球タイ記録である6本の先頭打者本塁打を放つなど、チームトップの27本塁打を放ち、1964年には打率.317(リーグ3位)を記録し二度目のベストナインに選ばれている。なお、西鉄の晩年には、中西の故障や豊田の移籍もあり打線の中軸を任されることも多くなった。中西が監督になるとキャプテンに任命され、チーム内外からキャップとのニックネームで親しまれた〔『巨人軍 陰のベストナイン』152頁〕。
には赤字に苦しむ球団の経費節減策の一環として、読売ジャイアンツからの譲渡要請に応じ、宮寺勝利(プラス金銭)との交換トレードで移籍する。移籍一年目はONに続く五番・左翼手を任され、ONにもひけを足らない勝負強いバッティングで4割に迫る高打率をキープ。ファンからは西部からの用心棒と呼ばれて頼もしがられ、オールスターゲームもファン投票で選出された(故障のため辞退)。シーズン半ばで右関節炎でリタイヤし73試合の出場に終わるが、打率.274、15本塁打を記録、特に前半戦での活躍は目覚ましく、巨人の独走優勝に大きく貢献した〔『巨人軍 陰のベストナイン』151頁〕。また、日本シリーズでも日本一を決めた第6戦で2点本塁打を放ち技能賞を獲得した。
この年10月10日の対広島戦(後楽園)で高倉は通算1500本安打を達成。さらにこの試合において巨人は2回から7回にかけて高倉と堀内恒夫〔この日、投手初の3打席連続本塁打を記録し、9回2死からの打球を高倉が好守しノーヒットノーランを達成〕、瀧安治末次利光と合わせて日本プロ野球記録となる6イニング連続本塁打を記録しているが、新記録は7回に高倉が打ったこの日2本目の本塁打によって達成されている〔【10月10日】1967年(昭42) どっちがオマケ?前代未聞、堀内恒夫のワンマンショー スポーツニッポン公式サイト2009年10月〕〔宇佐美徹也『日本プロ野球記録大鑑』講談社、435頁〕。
しかしには強肩好打の高田繁が入団して左翼手に起用されて新人王を獲得。高倉は故障もあって出場機会が減少して、打率.212、2本塁打と不本意な成績に終わる。オフには球団からコーチ補佐兼スカウトのポストを提示されたとされるが、高倉は従わず自由契約となる。翌に西鉄時代の同僚であった豊田泰光がコーチをしていたアトムズに移籍。外野の控えや代打として、には打率.312を記録するが、頭部への死球後遺症や、監督に中西太を招聘するために高倉を戦力外にするとの球団方針もあり、現役を引退した。〔『巨人軍 陰のベストナイン』162頁〕
1971年にはTBSで、1979年から数年間はRKB毎日放送野球解説者を務めた。また1970年代後半には、西日本スポーツ野球評論家も務めている〔西日本スポーツ・1978年5月9日、第1面。『甦れ! 俺の西鉄ライオンズ』について同紙評論家として「…懐かしいな」コメントしている。〕。また、1977年からは福岡市中洲で高級スナックの「キャップ」を経営した〔『背番号の消えた人生』126頁〕。
1988年からは少年野球チームの福岡南リトルシニアの監督に就任、現在は会長・総監督を務めている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「高倉照幸」の詳細全文を読む




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