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高場 乱(たかば おさむ、天保2年10月8日(1831年11月11日) - 明治24年(1891年)3月31日)は、江戸時代末期の女性儒学者で、医者、教育者。筑前国博多の人。幼名は養命。諱は元陽のち乱。通称は小刀。号は仙芝など。 == 経歴 == 筑前国博多瓦町の眼科医・高場正山の末子として生まれる。[高場家は代々眼科医の名門で福岡藩の藩医を努めていたが、幼名の「養命」からうかがえるように、乱は男として育てられた。天保12年(1841年)、10歳で(男として)元服。なお、この元服は藩に受理された公的なものである。異例と言えなくはないが、福岡藩の支藩にあたる秋月藩には原采蘋という男装帯刀の女性儒学者がすでにいた。16歳で一度は夫を得るが、これを不服として自ら離縁、20歳の時に亀井昭陽の亀井塾に入る。亀井塾は身分性別を問わない学風で、実際に女性の弟子も多かった。先に挙げた原采蘋もその一人である。 亀井塾で学問を修めた乱は明治6年(1873年)、福岡藩の薬用人参畑跡(現在博多駅の近く)に私塾興志塾(通称「人参畑塾」)を開設、医業の傍らで教育にも携わる道を選んだ。弟子は何故か乱暴者が多く、乱もあえてそういった人物を拒まなかったという。そのせいか乱は世間から「人参畑の女傑」と呼ばれ、塾も「梁山泊」などと呼ばれていたというが、乱自身は生来虚弱で、華奢であったと伝えられている。そんな興志塾に明治7年(1874年)頃に入門したのが頭山満であるが、彼の他にも後に玄洋社の主要なメンバーとなった平岡浩太郎や進藤喜平太、箱田六輔に武部小四郎などはいずれも興志塾で学んだ。 その弟子たちが起こした明治10年(1877年)3月の福岡の変への関与を疑われ、乱も一時は拘束されるが、釈放されている。その後、頭山らが結成した向陽社(玄洋社の前身)内部の抗争を仲裁するなどしつつ、弟子たちの行く末を見守っていたが、自由民権運動のうねりの中で多くの弟子たちが命を失っていった。ことに、弟子の一人である来島恒喜が大隈重信へテロを仕掛け自殺したことには衝撃を受けたようで、これを「匹夫の勇」(思慮浅く、ただ血気にはやって行動したがるだけの勇気)と評した書簡が残っている。来島の自殺の翌年、乱は後を追うように病床に伏し、医者であるにも関わらず一切の治療を拒みながら、弟子たちに看取られつつ逝去した。明治24年(1891年)3月31日のこと、59歳であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高場乱」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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