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高尾 光子(たかお みつこ、1915年7月22日 - 1980年11月26日〔高尾光子 、『講談社 日本人名大辞典』、講談社、コトバンク、2010年1月6日閲覧。〕)は、日本の女優、元子役である。本名は高尾 みち子(たかお みちこ)、デビュー当時の芸名は高尾 道子(たかお みちこ)である〔。 == 人物・来歴 == 1915年(大正4年)7月22日、兵庫県西宮市に「高尾みち子」として生まれる〔。 東京府東京市(現在の東京都)に移り、1921年(大正10年)、父親が衣裳部を務める日活向島撮影所に子役として入社する〔〔『日本映画俳優名鑑』、映画世界社、1934年、「高尾光子」の項。〕。同年2月16日に公開されたサイレント映画『嵐の舞』に出演〔、ついで同年6月14日公開、山本嘉一、女形の東猛夫が主演した『恋の墳墓』に「高尾道子」の名で出演して、満5歳でスクリーンデビューを果たした。同年5月1日、松竹キネマ(現在の松竹)が前年に開設した松竹蒲田撮影所に移籍〔、「高尾光子」に改名し、賀古残夢監督の『月魄』、大久保忠素監督の『地蔵物語』等に子役として出演する〔。 1922年(大正11年)4月1日、旧制・蒲田小学校(現在の大田区立蒲田小学校)に入学する〔。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で同撮影所は壊滅、京都にある松竹下加茂撮影所に同撮影所全体で異動、現代劇作品に出演した。翌1924年(大正13年)には蒲田が復興し、東京に戻る。牛原虚彦監督のオムニバス『子供の世界』の第三篇で主演、以降、主演作が増える。1928年(昭和3年)3月、蒲田小学校を卒業、卒業後は横浜の個人英語教授に通う〔。舞踊については、沢村紀久八に師事する〔。 子役から脱皮し、娘役を演じられるようになると、1933年(昭和8年)10月、松竹下加茂撮影所に異動し、時代劇に出演、高田浩吉や市川右太衛門の相手役を演じた。 1935年(昭和10年)、松竹を退社してP.C.L.映画製作所に移籍、トーキーに出演する。同年、イギリス領ビルマとの合作映画で、「ビルマ映画の父」と呼ばれるウー・ニイプ監督の『にっぽんむすめ』に出演する〔アジア映画 - “豊穣と多様” 、東京国立近代美術館フィルムセンター、2010年1月6日閲覧。〕。1937年(昭和12年)7月1日に公開された、滝沢英輔監督の『東海道は日本晴れ』に出演したのを最後に、満22歳の誕生日を目前に映画界を引退、同年、東京劇団に入団して舞台演劇に進出した〔。 第二次世界大戦終結後の1955年(昭和30年)、稲垣浩監督の『旅路』で、ひさびさに映画界に復帰した。 脚本家の愛人となって芸能界を引退し、1970年代は東京新橋の鳥森口で焼き鳥屋を経営し、娘と孫の3人で暮らしていた。孫娘は杉田かおると児童劇団の劇団若草での仲間だったという〔杉田かおる『すれっからし』小学館文庫、1999年、p.67〕。 1980年(昭和55年)11月26日、死去した〔。満65歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高尾光子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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