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高屋氏(たかやし)は、日本の氏族の一つ。大江氏の支流である寒河江大江氏(寒河江氏)の一族である。居城は高屋楯(現在の山形県寒河江市高屋)。 == 概要 == 村山郡寒河江荘高屋〔羽前国西村山郡高屋村、寒河江村(-町)高屋、現・寒河江市高屋。寒河江市寒河江の南隣、寒河江街道沿い長崎(中山町長崎)の最上川を挟んだ北隣〕の地は山形から寒河江にいたる寒河江街道沿いにあり、高屋阿弥陀堂の別当を大江元政の弟がつとめたのが初出である。 高屋氏初代元詮(もとあきら)は寒河江元時の弟であり、祖父大江時茂が南北朝の争乱に備えて白岩・柴橋・寒河江・溝延などに一族の子弟を配して守りを固めた際に、高屋に配置された楯を居館とした。南北朝の対立が激しい時代には、最上川対岸の高擶(現・天童市高擶)には敵対する北朝最上直家の子義直が配されており防衛上の要地であった。 しかし、応安元年/正平23年(1368年)漆川の戦いで大江氏が大敗すると、父大江時氏は兄元時を鎌倉に人質に出し北朝への服従を誓った。9か年の人質生活を終え、16歳で兄が帰還〔「安中坊系譜」『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』p.102〕して後元詮も高屋に移り住んだと思われる。当初高詮が築造した楯は最上川の川欠けにより移動があったという〔『寒河江市史 上巻』p.572〕。彼の子孫らは主計頭や掃部頭として寒河江氏に仕えた。6代知政は寒河江宗広の娘を娶り子息孝政は溝延広勝の養子となった。 天正12年(1584年)寒河江氏が最上氏の攻撃により滅びると8代知久も自害して高屋氏は途絶えた。 なお、高屋氏譜代の家臣として紀州出身の武田氏がいたことが知られる〔「武田家系図」『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』p.121〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高屋氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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