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高山 昇(たかやま のぼる、1864年(元治元年) - 1950年(昭和25年)10月20日)は、日本の神職。官幣大社稲荷神社(現・伏見稲荷大社)外の元宮司。 == 経歴 == 1864年、群馬県吾妻郡原町で高山茂樹(大宮巌鼓神社の神職)の長男として出生。1886年に皇典講究所師範科を卒業。1890年、長崎県皇典講究所分所教授となる。この傍らでキリスト教実情研究や西海神職連合会との交流を行ない、長崎諏訪神社宮司の立花照夫など盟友を得る。また、筥崎宮宮司の葦津磯夫に師事し神祇官興復運動の一翼を担う。 1893年に帰郷し、有志と共に敬神愛国教育を理念とする私学校を創設。1895年、静岡県大宮(現・富士宮市)鎮座の国幣中社・浅間神社(現・富士山本宮浅間大社)宮司に就任。懸案であった富士山頂奥宮の境内地を八合目以上と認定した(戦後の富士山境内地訴訟においても、この時の認定理論が確固たるものになった)。翌年、浅間神社が官幣大社に昇格。 1896年、父・茂樹の逝去に伴い累代の大宮巌鼓神社外、地域神社を兼務奉仕。1899年、宮城県塩竈市の国幣中社・鹽竈神社(現・志波彦神社・鹽竈神社)の宮司となる。1900年、伊勢の神宮に新設された神部署の初代署長に就任。1902年の國學院大學炎上に際しては、佐々木高行の特命を受けて皇典講究所主事として復興事業を推進し、普通神職養成所実現に貢献をした。 1914年、広島県の官幣中社・厳島神社の宮司に就任し、千畳閣の修復工事、平家納経の複本作成など文化事業を推進した。在任中に勅任待遇となる。1924年に官幣大社・稲荷神社(現・伏見稲荷大社)の宮司となり、稲荷信仰の浄化と宣揚につとめて稲荷山に禊道場清明舎を建設。更に講社組織を整備し附属稲荷講社を設立した。また、稲荷大神の東京分祠を目指し、東京都西東京市に東伏見稲荷神社が1929年に皇城鎮護の守護神として創建された。この計画には京都の本社の全面的支援と、葦津耕次郎、今泉定助ら有志が賛同した。 湘南鵠沼に禊錬成道場を建設したほか、稲荷奨学資金の設定などを行なった。また、在任中は内務省神社制度調査会特別委員等も兼務している。晩年は鵠沼海岸に隠棲し、1943年に地域住民の要望も受けて鵠沼伏見稲荷神社を創建した。1937年に稲荷神社宮司を退任し、皇典講究所専務理事に就任。この後、祭神との縁もあり乃木神社社司を兼務。神社局参与、神祇院参与、大日本神祇会顧問を歴任。終戦に際しては神社本庁創設に向け活動中の葦津珍彦らの動きを後見。1945年に乃木神社社司を退任し神社本庁顧問となる。 1950年10月20日、鵠沼海岸にて死去。87歳。大宮巌鼓神社近くの先祖累代の墓所に葬られた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高山昇」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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