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高岡 重蔵(たかおか じゅうぞう、1921年1月18日 - )は、日本の欧文組版工。現在、(有)嘉瑞工房(かずいこうぼう)の相談役である。 == 来歴・人物 == 1921年(大正10年)東京に生まれる。 小学校卒業後、父の意向で印刷会社に丁稚奉公。 2社目に勤めた印刷会社で欧文活字の整理を命じられ、初めて欧文活字と出会う。 1940年(昭和15年)欧文印刷研究会で井上嘉瑞(よしみつ)と出会う。 井上は日本のアマチュアプリンターで、嘉瑞工房の名称は井上の名前から付けられた。日本郵船の社員として5年間ロンドンに駐在し、その間に活字収集と本場のタイポグラフィを吸収した。在英中『印刷雑誌』1937年1月号に「田舎臭い日本の欧文印刷」を発表し、日本の欧文印刷のレベルの低さを指摘。このことが契機となり、帰国した井上の話を聞くために、1940年2月17日、第1回欧文印刷研究会が開催された。井上の記事を読んでいた高岡は、最年少でこの会に参加する。 その後、井上に弟子入りを志願。当初は何度も断られたが、喜美子夫人のとりなしもあり、この年に弟子入りを認められる(井上に入門を認められたのは高岡一人のみ)〔『ローマ字印刷研究』大日本印刷ICC本部、2000年、251ページ、高岡重蔵の90歳の誕生日を祝って開かれたパーティーで配布された小冊子(烏有書林制作、2011年)〕。 井上からタイポグラフィの基本と精神を教えられる。高岡がタイポグラフィの話が聞けると思って期待して井上のもとに通い始めると、始終ロンドンの街や人の様子の話を聞かされて、それが数回続いた。「そろそろタイポグラフィの手ほどきを…」とおそるおそる高岡が切り出すと、井上は「教えてるじゃないか。君が欧文活字を使って刷ったものが、どういう人の手に渡るのかを教えているのだ。渡る先の人のことを知らないで印刷物を刷ってどうするのだ」と叱られたという。この一言が高岡の後の仕事やタイポグラフィ教育の原点となった〔『ローマ字印刷研究』大日本印刷ICC本部、2000年、252ページ、および、本人からの聞き取り〕。 原宿の自宅にあった井上の嘉瑞工房には、在英時に集めた多くの欧文書体があったが、戦災で全て焼失する。戦後、高岡は細川活版所で働いていたが、井上からの依頼で工房を再建することになり、細川活版所を退社。井上の出資を受けて、1948年(昭和23年)神田鍛冶町に嘉瑞工房を復活させる〔高岡重蔵の90歳の誕生日を祝って開かれたパーティーで配布された小冊子(烏有書林制作、2011年)〕。仕事が多忙となった井上は工房の実務から離れ、高岡が中心となり、それまでのプライベートプレスから営利目的の印刷工房として活動していくことになる。 1956年(昭和31年)井上嘉瑞が死去。高岡が工房を引き継ぎ、有限会社嘉瑞工房を設立する。 1964年(昭和39年)東京オリンピックの賞状の氏名部分の印刷を担当する〔『高岡重蔵活版習作集』 「これ、誰がデザインしたの?」ブログ (2013年4月26日)〕。 1970年頃からたびたび訪欧するようになり、海外の活字会社を訪ね活字を購入したり、海外の書体デザイナーやタイポグラファー、活版印刷家達と交流するようになる。 書体デザイナーのヘルマン・ツァップ(Hermann Zapf)とは1972年にドイツで会い、その後お互いの自宅を訪問しあう仲となり、長い交流が続いた。 ロンドン・タイプミュージアム館長のスーザン・ショー(Susan Shaw)や、セントブライド印刷図書館元館長のジェームズ・モーズリー(James Mosley)とも長い交流がある。 1995年(平成17年) 高岡重蔵の息子、高岡昌生が工房の社長に就任し、高岡重蔵は相談役となる。この年、英国王立芸術協会フェロー(Fellow of the Royal Society of Art)の終身フェローの称号を与えられる。 1998年から2002年まで、印刷博物館(凸版印刷)の印刷工房「印刷の家」のアドバイザーを務める。 2013年(平成25年)訪英した際、欧文タイポグラフィーの最高峰のメンバーで構成される、ダブルクラウンクラブ(Double Crown Club)のディナーに招待される。 2014年(平成26年)『Matrix: A Review for Printers & Bibliophiles』32号に、高岡の長年の活版印刷の仕事が紹介される。 1960年代中頃から80年代にかけて、嘉瑞工房には直接タイポグラフィ好きの人々が集まるようになり、「金曜サロン(Friday Salon)」と称し、何人ものデザイナーやアマチュアプリンター達が高岡から教えを受けた〔『高岡重蔵 活版習作集』烏有書林、2013年、143〜145ページ〕。 エドワード・ジョンストン(Edward Johnston)のロンドン地下鉄書体の改刻や、“メイリオ”の書体デザインなどで知られる河野英一は、嘉瑞工房で高岡から直接教えを受けた人で、長く師弟関係が続いている。欧文書体デザイナーで Monotype社のタイプディレクターの小林章とも、1990年代からの長い交流がある。 近年は活版印刷の実務から離れているため、国内外の知人や取材者には洒落っ気を込めて 「I left my composing stick for a walking stick.」 と語っている(composing stick は活字組版をする際の道具)。〔『竹尾賞 デザインと社会をつなぐ10回の歩み』竹尾、2014年、7ページ〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高岡重蔵」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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