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藍謝堂(らんしゃどう)、又は藍謝塾は、1871年(明治4年)に高島嘉右衛門が横浜伊勢山下と入船町に開校した私塾。通称は高島学校。 == 概略 == 高島は、私財3万円を投じて語学を中心にした塾を開設。敷地は一万坪、学生1000人が収容できる大きな学校で、英語・フランス語・ドイツ語・漢学・算術を教える外国人と日本人の教師13人でスタートした〔『岡倉天心物語』 新井恵美子、神奈川新聞、2004〕。 高島の予定では懇意にしていた福澤諭吉を塾長として迎えようとしていたが、福沢は代わりに慶應義塾の教員である、海老名晋、荘田平五郎、小幡甚三郎、浜尾新、日原昌造らを教師として派遣し、同等の授業を組んで学生交流を開始した。同校が開校していた期間は短かったが、岡倉天心、寺内正毅、本野一郎、宮部金吾、星亨といった人物も学んでいる。1873年(明治6年)には学校設立の功により明治天皇から三組の銀杯を下賜される。 明治6年11月11日、神奈川県によって高島学校が同日付で高島の手を離れ、のちに川村敬三の『同文社』と合併して野毛山に新校舎を設立し「横浜市学校」と改め、市中共立『修文館』となったが翌年の明治7年に焼失した。この短い期間にも外国人教師サミュエル・ロビンス・ブラウンに島田三郎、井深梶之助、植村正久といった人物が学んでいる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藍謝堂」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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