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高嶋 秀武(たかしま ひでたけ、1942年4月17日 - )は、フリーアナウンサー、ラジオパーソナリティ。元ニッポン放送アナウンサー。愛称は「ひでちゃん」、「ひでさん」、「ヒゲ武」、「ヒデ坊」。 神奈川県横須賀市出身。 == 略歴 == 神奈川県立横須賀高等学校卒業。一年先輩に小泉純一郎がいる。明治大学政治経済学部政治学科卒業後、1965年にニッポン放送入社(同社元社長の亀渕昭信は1年先輩にあたる)。最初は編成制作部に配属。2年目にスポーツ部に異動し、主にスポーツ番組を担当。東京オリオンズ、大洋ホエールズ、読売ジャイアンツの担当として取材活動もしていた〔日刊スポーツ 2014年1月4日 15面「あの人に聞きたい 著名人にロングインタビュー 高嶋秀武さん(上)」より。〕。 1969年1月に今仁哲夫の後任として『オールナイトニッポン』の2代目パーソナリティ第2号〔前年10月に、金曜日担当が常木健男から梶幹雄に交代しており、これが2代目パーソナリティ第1号である。〕として木曜担当に抜擢。当時はスポーツ部所属だったためナイターシーズンは休演(代役は亀渕)、1970年3月に天井邦夫と交代して一旦降板するが同年10月には高岡寮一郎の後任として水曜担当で復帰(これ以降はナイターシーズンでも掛け持ちで出演を継続)、その後1971年4月に天井と曜日を交換して再び木曜担当に戻り、1972年1月まで延べ約2年半にわたって担当。当時のパーソナリティ陣の中で最年少だったことから“ヒデ坊”の愛称(今仁の命名、自著「サイヨウス ニッポンホウソウ」より)で親しまれ、糸居五郎、斉藤安弘、天井、今仁、亀渕らとともに番組の第1次ブームを支えた。 当時はオープニングの挨拶に「やる気ムンムン、その気ムンムン、チャムチャム、ミッチャム、ビケンヤ」という言い回し(これは当時独身で何とかしてモテるような雰囲気を出したいと考えた高嶋が、偶然飲み屋で聞いたフレーズを拝借したとのこと〔文化放送「吉田照美 飛べ!サルバドール」2014年3月17日放送分にゲスト出演した際の高嶋のコメントより。〕)を多用したり、番組中でよく高橋圭三の物真似を好んで行ったりするという芸風だった。 1973年限りでスポーツ部を離れ、制作部へ異動、以後芸能番組を多く担当する。 1975年には若年層向け夜ワイド番組『大入りダイヤルまだ宵の口』の初代パーソナリティに抜擢される。これを機に長髪と口髭をトレードマークに、マイクネームもこの風貌に因んだ「高島ヒゲ武」に変更して活躍した〔当時、ニッポン放送の裏で放送されていた『みのもんたのワイドNo1』(文化放送)がトップを走っていた中でスタートさせる『大入りダイヤルまだ宵の口』のパーソナリティーとして高嶋が決まった時、番組のプロデューサーだった上野修が、当時はまだ取り立てて個性的というほどではなくごくごく一般的であった高嶋のイメージチェンジを図るべく、高嶋に「みのの番組に勝つために変わってもらう。『人は体全体から喋りが出てくる』。まずヒゲをはやし、オレが良しを出すまでは髪を切らず、ジーパンをはけ。ネクタイは一切禁止で、スニーカーをはけ。」と指令を出したという。このイメージチェンジによって高嶋は社内で注目される様になり、注目されることによってパーソナリティーとしての個性が開花していったといわれる。「高島ヒゲ武」のマイクネームも上野の命名によるものである(上野修・著『ミスター・ラジオが通る』(実業之日本社より)/『〝あっという間〟に距離が伝わる伝え方』(扶桑社より)。〕。なお、マイクネームの候補には「高島ヒゲ武」の他「高島ナメ武」「高島エロ武」「ロッキード秀武」があり、『宵の口』の番組中でリスナーに「スタート」「ストップ」を言わせ、高速回転するテープをストップさせて出たのが「ヒゲ武」だった〔。 1977年5月9日、後輩のくり万太郎と、この6年前(1971年)に行われた糸居五郎の「50時間マラソンDJ」をさらに10時間上回る「ヒゲ武・くり万60時間マラソンDJ」を敢行。9日午後2時スタート、5月11日深夜(5月12日未明)午前2時完走。 1979年に『大入りダイヤルまだ宵の口』を卒業して以降はマイクネームを「高島秀武」に再度変更した(その後1981年からは「高島ひでたけ」、ニッポン放送を退社後の1999年からは「高嶋ひでたけ」と、マイクネームを都合6回変更している)。 その人気を買われ、1979年グループ企業であるフジテレビの音楽番組「ビッグベストテン」の司会者に起用されるが半年で打ち切られる。その後は再びニッポン放送に戻って1981年4月から『高島ひでたけの今日も快調!朝8時』で早朝枠を担当することになった。 そして1985年4月、42歳のときに『今日も快調!』が直前番組の『山谷親平のお早ようニッポン』(パーソナリティの山谷親平が前年11月に逝去し、ピンチヒッターによる放送が続いていた)を呑み込んで枠拡大となる形で『高嶋ひでたけのお早よう!中年探偵団』がスタート、1985年4月-2004年3月までの19年間にわたって放送されるニッポン放送の名物番組となった。 その間、1990年10月に退社し、フリーアナウンサーとなった。 『中年探偵団』終了後は、長年『鶴光の噂のゴールデンアワー』が放送されていた夕方の枠へ異動し、『大吉ラジオ』→『高嶋ひでたけの特ダネラジオ 夕焼けホットライン』を担当した後、2010年6月末からスタートした『高嶋ひでたけのあさラジ!』で6年3ヶ月ぶりに朝ワイドのパーソナリティに復帰、現在に至っている。 2015年にはパーソナリティ歴50年となる。なお、ニッポン放送開局60周年をひっかけた50年イベントを2014年に行うことになっている(本人談)。 夕刊フジで連載「お便り夕焼け空」→「お便り朝イチバン」を持っている(現在は主に金曜日の川柳を紹介)。テレビ「ワイド!スクランブル」(テレビ朝日)の『夕刊キャッチUP』でたびたび当連載が紹介さる。 1978年の映画「正午なり」にキャンプの男役で出演したこともある。 安保法案に肯定的な発言を度々している。また、担当番組では、女性からの「タメ口」の言葉が入っているお便りを紹介する際、高齢女性だけではなく砕けた口調の若い世代の女性でも関係なく「女性語」で紹介している(エピソード等の紹介時、「〜だよねぇ」と書かれていた場合、「〜なのよね」口調に変えて紹介する)。 ニュースキャスターとしては極めて珍しく「いわゆる」が口癖であり、どんな言葉にでも頭に「いわゆる」とつけて多用する。 (「いわゆる」という言葉は「俗に言う」と同意義なので通常使われる言葉に使用するキャスターは皆無である) ただし、本来「いわゆる」をつけるべき従軍慰安婦や南京大虐殺などにはいわゆるを使わないのでおそらく意味を理解していないと思われる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高嶋秀武」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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