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高嶺村(たかみねそん)はかつて沖縄県(戦後は琉球政府)島尻郡にあった村で、現在の糸満市中部に位置する。 1908年の島嶼町村制施行で高嶺間切から高嶺村となった。1961年に北に隣接する(旧)糸満町・兼城村と南に隣接する三和村と合併し(新)糸満町となり消滅。現在は旧村内一帯を高嶺地域として糸満市の一地域として位置づけられている。村の中心部は字大里だった(2006年に南城市に合併された旧大里村の大里とは別)。 == 沿革 == かつてこの地域は高嶺間切で、古くはしもしましり、島尻大里間切と呼ばれていた。琉球王国時代、大里に南山城があり沖縄本島南部一帯を支配していた。また混同を避けるため南山城がある大里を「島尻大里」、大里城がある大里(現在の南城市大里と与那原町)を「島添大里」と呼ぶことになり、島尻大里間切は1667年に高嶺間切に改称した(島添大里間切は大里間切)。 高嶺間切は1896年に島尻郡に編入。1908年の島嶼町村制施行で高嶺村となった。村役場は南山城に近い大里に置かれた。サトウキビ中心の農業が盛んで、東風平との村境に近い与座には製糖工場があった。1923年には沖縄県営鉄道糸満線が開通し、村内にも高嶺駅が設置され、県都那覇や海人(うみんちゅ)の街である糸満とを結んでいた。 沖縄戦では1500人余が犠牲になったが、引き続き村役所を大里におき、村として戦後復興を努めた。しかし行財政力に乏しかったことから、財政力の強化と行政運営の合理的・能率的から1961年10月1日に(旧)糸満町・兼城村・三和村と合併し(新)糸満町となり、高嶺村は消滅した。合併後、村役所は糸満町高嶺支所となったが数年後に廃止され、庁舎は高嶺農協(のちにJA糸満市高嶺支所→JAおきなわ糸満支店に統合し廃止)の庁舎として使用された。糸満町は1971年12月1日に市に昇格し糸満市となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高嶺村」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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