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高嶺 秀夫(たかみね ひでお、1854年10月5日(嘉永7年8月14日) - 1910年(明治43年)2月22日)は明治時代の日本の教育者。旧会津藩士。 慶應義塾(慶應義塾大学の前身)の塾生・教員を経て、師範学校調査のため文部省から米国へ派遣され、オスウィーゴー師範学校(ニューヨーク州立大学オスウィーゴー校の前身)に留学。帰国後は東京師範学校および高等師範学校(いずれも筑波大学の前身の一つ)で教員・校長を務め、ペスタロッチ主義教授法の導入と師範教育の近代化を推進した。また帝国博物館(東京国立博物館の前身)天産部長・歴史部長を兼ね、晩年は女子高等師範学校(お茶の水女子大学の前身)、東京美術学校、東京音楽学校(ともに東京芸術大学の前身)の校長を歴任した。 == 生涯 == 嘉永7年(1854年)、陸奥国若松城下の旧本四ノ丁(現在の福島県会津若松市西栄町)で、藩士・高嶺忠亮(ただすけ)の長男に生まれた。藩校・日新館で漢学を学び頭角をあらわし、南摩綱紀と共に、9代藩主・松平容保側近の小姓となった。明治元年(1868年)6月から11月の会津戦争では藩主とともに籠城し、降伏した。 東京でしばらく監禁を宣告され謹慎して、丹波亀山藩の松平家の保護下に置かれた。赦免後、沼間守一の私塾に通い、英語を学び始めた。斗南藩(旧会津藩)の命により、明治4年(1871年)7月、福澤諭吉が開設した慶應義塾(後の慶應義塾大学)に入学し、洋学・漢学を学んだのちに、5年間にわたり教員も務めた。同窓に鎌田榮吉、釈宗演、後藤牧太がいる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高嶺秀夫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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