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高木 三四郎(たかぎ さんしろう、男性、1970年1月13日 - )は、日本のプロレスラー。本名:高木 規(たかぎ ただし)。株式会社DDTプロレスリング代表取締役社長。株式会社GENスポーツエンターテインメント最高経営責任者。 == 来歴 == 大阪府豊中市出身。関西大倉高校から駒澤大学に進み、在学中に芝で手がけたイベントで3,000人の集客に成功する〔マッスル・・・行こうぜ!プロレスの向こう側 rino-diary テレビディレクター 岡田倫太郎です。 2010年9月26日〕。 1994年にIWA格闘志塾に入門。横浜市鶴見区の屋台村・ヨンドンで定期的に行われていた屋台村プロレスに参加。屋台村プロレスで試合をしていたが、正式デビューは翌1995年2月16日のPWC渋谷大会におけるトラブルシューター・コウチ(現:高智政光)とされていることが多い。 1996年にPWCへ移籍するも、すぐにフリーとなる。この年、第41回衆議院議員総選挙に神奈川県第9区から自由連合公認で立候補するも落選(この時の選挙ポスターは、ハードコア戦で「精神的な凶器」として使われる事がある)。 1997年にDDTプロレスリングの旗揚げに参加、以降エースとして団体を盛り上げる。 2000年12月14日、KO-D無差別級王座を獲得。2003年1月31日、KO-Dタッグ王座獲得(パートナーは橋本友彦)。 2006年1月29日に社長争奪ロイヤルランブルを制し、DDTの社長に就任。以後は「大社長」の肩書きで、DDTの成長に力を注いだ。鈴木健想(現KENSO)と電流爆破マッチを敢行する。 2008年4月、初の著書「俺たち文化系プロレスDDT」(太田出版)を出版。そのプロモーションとして東京・中井の伊野尾書店にて「本屋プロレス」を行う。(対戦カードは高木三四郎×飯伏幸太)。 2008年12月、後楽園大会でHARASHIMAを相手にKO-D無差別級選手権を防衛した直後、翌2009年8月にDDT初の両国国技館大会開催を発表。「自分たちのなかで限界を作ってたんじゃないのか?そんなことやったって上に行けないんだよ!限界を作ってたらなにもできないよ!」と団体創設以来初のビッグマッチ開催への意気込みをマイクで語った。 2009年8月、DDT初の両国国技館大会「両国ピーターパン 〜大人になんてなれないよ〜」を開催。8865人(超満員札止)の観衆を集め、見事成功を収める。この年米国のプロレス業界紙「レスリング・オブザーバー」のレスリング・オブザーバ・アワード2009のベストプロモーター部門第2位に選ばれた。 2010年2月11日KO-Dタッグ獲得。パートナー澤宗紀の意向により初防衛戦をスポンサーの工場(宮地エンジニアリンググループ)で行い防衛成功(vs GENTARO・中澤マイケル)。試合後、対戦相手のGENTAROから、「葛西純どころじゃねぇ!本物のキチ○イだよ!」と言われた。 2010年9月26日、マッスル坂井との引退セレモニーランブル(敗者は即日引退)に敗れ、現役引退。同時に、翌日の現役復帰を宣言。 2010年10月7日、DDT48総選挙結果発表の場において、同年12月を持って傘下団体のユニオンプロレスに移籍することを発表。ユニオンへは「TKG48」として乗り込む。その後、2011年限りでDDT社長として「武道館ピーターパン」の準備に集中するためユニオンでの活動を休止し、TKG48も解散。 2012年からは、社長であるにもかかわらず「DDTには反体制が足りない」と宣言。「反体制軍」を結成し、DDTゼネラルマネージャーの鶴見亜門と対立。その後反体制軍は「nWJ(new World Japan)」に発展。高木曰く「日米の反体制ユニット、維新軍とnWoをミックスしたユニット」。最高顧問には元WJプロレスの永島勝司を迎えた。現在は、大鷲透・平田一喜と共に3人組ユニット『T2ひー』の一員として活動中。 2015年5月5日、WRESTLE-1の最高経営責任者に就任〔株式会社DDTプロレスリング代表取締役社長 高木三四郎氏のWRESTLE-1 CEO兼任のお知らせ 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高木三四郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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