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高木 壬太郎(たかぎ みずたろう、1864年6月23日(元治元年5月20日) - 1921年(大正10年)1月27日)は、明治時代から大正時代にかけて活動したメソジスト派の牧師、教育者である。 == 参考文献 == 1864年(元治元年)、遠江国川根本町の医家に生まれ、幼少より漢学を学び、蘭学塾、静岡師範学校などで学ぶ。1885年(明治18年)キリスト教宣教師F.A.カシディの説教を聞きキリスト教の求道を初め、1886年(明治19年)に、山路愛山と共にカナダ・メソジスト教会静岡教会で平岩愃保牧師より洗礼を受ける。静岡教会は高木の他に、山中笑、土屋彦六、山路愛山、今井信郎らを輩出した〔高橋2003、66頁〕。 1888年(明治21年)に24歳にして静岡県の高等小学校の校長になったが。教師を辞して、1898年より牧師になるために東洋英和学校とカナダのヴィクトリア大学神学部で学び日本人初の名誉神学博士号を授与された。 1904年(明治37年)の帰国後は青山学院神学部教授に就任し麻布教会(現、鳥居坂教会)、牧師としても活動した。1907年(明治40年)から青山学院専任教授として新約神学を講じ、メソジスト教会機関誌『護教』の主筆として思想界に多大の影響を及ぼした。1912年(明治45年)の第2次西園寺内閣の時に、床次竹二郎内務事務官の主催により、三教合同が開催された。高木、柏木義円、内村鑑三、明石繁太郎らはこの会合に反対した〔高橋2003、192-193頁〕。1913年(大正2年)小方仙之助の後をついで第4代目院長に就任する。1920年(大正9年)には、青山学院大学設置計画を発表。キリスト教主義大学の設立事業の実現に向けて全力を傾けたが、その翌1921年(大正10年)に急死する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高木壬太郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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