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高木憲次 : ミニ英和和英辞書
高木憲次[たかぎ けんじ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [たか]
 【名詞】 1. quantity 2. amount 3. volume 4. number 5. amount of money 
: [き]
 【名詞】 1. tree 2. wood 3. timber 
: [つぎ]
  1. (n,adj-no) (1) next 2. following 3. subsequent 4. (2) stage 5. station 

高木憲次 : ウィキペディア日本語版
高木憲次[たかぎ けんじ]

高木 憲次(たかぎ けんじ、明治22年(1889年2月9日) - 昭和38年(1963年4月8日)は、大正から昭和後期にかけての整形外科医。1926年大正13年)、東京帝国大学教授、後に日本医科大学教授を歴任した。日本の肢体不自由児教育の創始者といわれている。日本の「肢体不自由児の父」と呼ばれる〔徳永豊「肢体不自由教育のしくみ」 『障害児の医療・福祉・教育の手引き(医療・教育編)』 日本肢体不自由児協会、p77 、2009年10月20日閲覧。〕。「夢の楽園教療所」を提唱し,日本で初めて「肢体不自由児調査」という根拠に基づいて肢体不自由養護施設が日本に必要であると説いた。本邦初の肢体不自由療育施設である整肢療護園の初代理事長。レントゲン研究の第一人者でもある。
==生い立ち==
1889年明治22年)、東京都東京市本郷区弥生において父左金吾と母てふの第三子、次男として生まれる。生家の高木家は、代々徳川幕府に仕えており、憲次の祖父至善は評定所詰めであったといわれている。憲次の父左金吾は、石川家から至善の娘てふの婿養子として、高木家に迎えられた。左金吾の実家の石川家は代々、医を業としており、左金吾の父の石川玄純は、京都御所で天皇侍医を務めたこともある。その流れから、左金吾も近代医学を学び、それを駆使して奉仕的に診療活動を行っていた。
憲次は色白で虚弱な子どもであったが、繁盛する開業医の坊ちゃんとして可愛がられ、恵まれた幼年時代を送った。1895年(明治28年)に東京市立本郷尋常高等小学校に入学した。当時の尋常小学校の修業年数は三か年または四か年であったが、憲次は、成績が優秀であったため、一年から飛び級して三年に進級し、三年間で尋常小学校の四ヵ年の課程を修了している。中学校は独協中学校に入学。独協中学校を卒業後1905年(明治38年)9月に第一高等学校に入学。憲次はよく勉強したが、当時の同級からは「特に目立つほどの生徒ではなかった。すなわち将来を想見されるほどには見えなかった。」と評価されている。このころに憲次が手に入れ、愛好したカメラの技術が、後年レントゲンの研究に大きく影響したとされている。
憲次は1908年(明治41年)7月第一高等学校第三部を卒業後、同年9月に東京帝国大学医科大学医学科に入学した〔村田茂「高木憲次 -その人と業績-」、p9-p20、2009年10月20日閲覧。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「高木憲次」の詳細全文を読む




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