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高木 清秀(たかぎ きよひで)は、戦国時代の武将。織田氏、徳川氏の家臣。家紋は「高木鷹の羽」。 == 生涯 == === 織田家臣時代 === 水野信元に属し、尾張緒川に住す、と「寛永伝」にあるが、元来は三河の出身という〔『太閤記』〕。 若年の頃、信元の下を去って織田信秀に属し、天文17年(1548年)の小豆坂の戦いで高名という。〔『寛永伝』〕 その後、再び信元に属し、刈屋の戦い、石瀬の戦い、姉川の戦い、長島攻め、長篠の戦いなどに従軍。 特に石瀬の戦いでは大功を立てたという。〔『武家事紀』『寛永伝』〕清秀は、石瀬合戦で家康の重臣石川数正と七度にわたり槍を交えた。 永禄六年(1563年)秋に三河一向一揆が蜂起し、家康は苦戦を強いられる。信元は甥家康を救援するために出馬し、これに従った清秀は一揆勢を相手に奮戦、浅手を負った。一揆を鎮圧した家康は、翌七年(1564年)6月、清秀が水野家に属しているのもかかわらず、高木氏の故地三河大岡郷領知の判物を与え、その働きを賞した。〔『士林泝洄』『重修譜』〕 天正二年七月、伊勢長島の一向一揆攻めに出陣し、先頭を進み、敵陣に切り込んで一揆の主魁盛林坊を討ち取って武名を響かせた。が、この合戦では嫡男光秀を失っている。 また、『日本戦史 長篠役補伝』第五十八には高木清秀と真田昌輝が鑓を合わせたという記述がみられる。 天正3年(1575年)に信元が武田勝頼に内通した罪により信長によって殺されると、佐久間信盛の与力となる。〔『寛永伝』『武家事紀』〕 同四年より信盛は大坂攻めを担当するが、清秀はそれに従って天王寺城にはいり、しばしば大坂の一揆と戦った。〔『武家事紀』〕 同八年八月佐久間父子譴責状中に、信盛が三河にも与力を持っていたことがかかれているが、この清秀を指すのであろう。〔『公記』〕 信盛に従って、対大坂だけでなく、松永攻め、有岡攻めにも活躍したという。〔『寛永伝』〕 ところがその信盛も天正8年(1580年)に信長によって追放された。おそらく、信長直属の家臣として仕えるようになった、と思われるが、この頃の行動は全く伝わっていない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高木清秀」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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