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高木 盛之輔(たかぎ もりのすけ/たかき もりのすけ、1854年(安政1年) - 1919年(大正8年)2月19日)は、日本の武士、検察官。会津藩藩士として戊辰戦争を、別働第二旅団の一員として西南戦争を戦った。姉の高木時尾は照姫附き祐筆で、元新撰組副長助勤斎藤一(藤田五郎)に嫁ぐ〔『新選組・斎藤一の謎』14-15頁〕〔*>斎藤は高嶺秀夫の斡旋で東京高等師範学校に勤務したが、その仲介をしたのが高木であった(『新選組・斎藤一の謎』129-130頁)〕。福島県立会津高等学校の創立功労者の一人である。 == 生涯 == ===戊辰戦争・西南戦争=== 会津藩高士、家禄300石の高木家に生まれる。高木家は藩大目付を務める家柄であった。会津戦争の当初は伝令を務め、松平容保、定敬兄弟が出陣していた滝沢本陣に危急を報告した〔平石弁蔵『会津戊辰戦争』173頁〕。その後年少者で組織された護衛隊〔*>隊員の一人に池上三郎がいた。〕に属して篭城戦を戦った。藩降伏後は猪苗代で謹慎生活を送る。この際軍事方水島純の命で同年輩の山川健次郎、赤羽四郎、柴四朗ら五人で謹慎所を脱出し、若松で土佐藩の伴中吉〔*>伴は水島純と旧知の間柄であった。〕に主君容保、喜徳父子への寛大な措置を嘆願した。処刑もあり得ることを覚悟の上の行動であった〔花見朔巳編『男爵山川先生伝』35-37頁〕。その後東京へ赴き、西南戦争では山川浩陸軍中佐の元で転戦する。戦の最中 と詠んだ〔「会津会会報第十四号 高木盛之輔氏の逝去」〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高木盛之輔」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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