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番町政策研究所(ばんちょうせいさくけんきゅうじょ)は、自由民主党の派閥(政策研究会系)。 「研究所」の名はついているがシンクタンクではない。「番町」を冠するのは事務局が紀尾井町にあるため。 略称は番町研、通称は山東派(松村・三木派→三木派→河本派→高村派→大島派→山東派)。 重光葵が率いた改進党を起源に持ち、松村謙三・三木武夫・河本敏夫の流れを汲む。現在までに三木武夫、海部俊樹と2人の総理・総裁を出しているが、総裁時代は小派閥ゆえにいずれも党内運営に苦慮し、道半ばでの退陣を余儀なくされている。三木や海部に代表されるように、政策的には党内左派と位置づけられることが多かったが、現在では保守系の議員も多く、そうした政策的な伝統はそれほど継承されていない。一方、独自路線を志向する歴史は引き継がれてきた。 なお、現会長山東昭子は自民党初の女性の派閥領袖である。 == 沿革 == === 結成 === 戦前の2大政党の1つである立憲民政党、及び戦後の中道政党である国民協同党の流れを汲み、重光葵が総裁であった改進党系の議員で構成され、自由民主党の「保守本流」(吉田茂の系譜を受け継ぐグループ。官僚出身者や党人派でも戦前の立憲政友会及び戦後の自由党の流れを汲んでいる)と呼ばれる党内主流派に対比して「保守傍流」などと揶揄された。 保守傍流と呼ばれた他派閥が保守本流以上に保守色が強いのに対して、三木派は自民党内では左派に相当し、異端の存在であった。保守本流に比べて勢力の弱い小派閥であったが、それを逆手にとって党内のキャスティング・ボートを握るなど強かな面も持っていたため、派閥領軸の三木武夫は「バルカン政治家」と呼ばれた。 三木は、石橋湛山・池田勇人総裁時代に執行部幹事長に就任し、岸信介・佐藤栄作総裁の下で残務整理の形で幹事長に留任する。松村謙三と三木の共同代表という形で政策研究会(松村・三木派)を結成し、政策同志会・政策懇談会を経て旧改進党系の中間派議員を取り込み派閥を拡大させるが、1964年の総裁選挙への対応を巡って松村と三木が対立。松村とその支持者数名は小派閥の松村派を結成し離脱したため、ここから三木が単独で派閥領袖となり、三木派となる。1971年、三木派と同じく党内左派の石田博英が率いていた石田派(二日会)が合流し、三木派のかたちが完成された。 1972年、壮絶な角福戦争が展開された自民党総裁選に出馬。自派の早川崇ら数名の福田赳夫への造反もあり最下位に終わるが、決選投票では田中角栄を支持し、田中政権誕生に貢献することで、影響力を維持することとなる。 田中政権の下では日中国交正常化まで主流派だったが、1974年の第10回参議院議員通常選挙で、三木の膝元である徳島県選挙区において、現職の三木派候補である久次米健太郎が非公認となり、新人の田中派候補である後藤田正晴が公認されるねじれ現象が起こった。激しい選挙戦の末、現職の久次米が再選するも、田中に強い不信感を持った三木はこれを契機に副総理を辞任し、反主流派へとまわった(三角代理戦争)。同年、田中首相が退陣すると大福の睨み合いの漁夫の利を拾うかたちで椎名裁定で三木が総理総裁に就任し、「困った時の三木派」と呼ばれた。 1975年、田中前首相がロッキード事件の発覚で逮捕された事で、党内に反三木の声が至る所から起こり、三木おろしが始まる。三木は解散を模索するが果たせず、任期満了で1976年12月の総選挙を戦うが、自民党は事実上の分裂選挙となり敗北。責任を取り三木は退陣した。 1978年の自民党総裁選には三木ではなく河本敏夫が出馬。中曽根康弘と並ぶポスト三角大福の総裁候補として認知された。 1979年10月の衆院選後に、選挙結果への責任を取るべく大平正芳首相への退陣を要求し、福田派・中曽根派とともに反主流派となる。11月の首班指名で福田前首相を反主流派の統一候補に指名するも(四十日抗争)同派から数名が大平へ造反し主流派に敗れ第2次大平内閣が発足した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「番町政策研究所」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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