翻訳と辞書
Words near each other
・ 高松地裁観音寺支部
・ 高松坂出有料道路
・ 高松城
・ 高松城 (備中国)
・ 高松城 (曖昧さ回避)
・ 高松城 (讃岐国)
・ 高松城の水攻め
・ 高松城址公園
・ 高松基幹局
・ 高松塚
高松塚古墳
・ 高松大典
・ 高松大学
・ 高松大樹
・ 高松大空襲
・ 高松天満屋
・ 高松太郎
・ 高松奈々
・ 高松女子商業高等学校
・ 高松宮


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

高松塚古墳 : ミニ英和和英辞書
高松塚古墳[たかまつづかこふん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [たか]
 【名詞】 1. quantity 2. amount 3. volume 4. number 5. amount of money 
: [まつ]
 【名詞】 1. (1) pine tree 2. (2) highest (of a three-tier ranking system) 
: [つか]
 【名詞】 1. mound 
: [ふる]
 【名詞】 1. used 2. secondhand
古墳 : [こふん]
 【名詞】 1. ancient (mound) tomb 

高松塚古墳 : ウィキペディア日本語版
高松塚古墳[たかまつづかこふん]

高松塚古墳(たかまつづかこふん)は、奈良県高市郡明日香村国営飛鳥歴史公園内)に存在する古墳藤原京期694年710年)に築造された終末期古墳で、直径23m(下段)及び18m(上段)、高さ5mの二段式の円墳である。1972年に極彩色の壁画が発見されたことで一躍注目されるようになった。
2009年に本来の形状に復元され、一般に公開されている。

==発掘調査==
高松塚古墳の発掘調査は、1972年3月1日から開始された。発掘の始まったきっかけは、1970年の10月ごろ村人がショウガを貯蔵しようと穴を掘ったところ、穴の奥に古い切石が見つかったことである。地元の人達が明日香村に働きかけ、明日香村が資金を捻出し奈良県立橿原考古学研究所が発掘調査することになった。発掘は明日香村が事業主体となり、橿原考古学研究所が実際の発掘を担当した。当時、明日香村では村の発足15周年を期に村史を編纂するため、未調査の遺跡の発掘を進めており、高松塚の発掘もその一環であった〔発掘のための資金は川原寺で発見された塼仏の発掘のために集められた予算50万円が流用された - 網干善教「高松塚への道」(2007年、草思社)〕。奈良県立橿原考古学研究所所長の末永雅雄の指揮のもと、現場での発掘は伊達宗泰関西大学助教授の網干善教を中心とした関西大学龍谷大学の研究者・学生グループによって行われた。石室が検出され、鮮やかに彩色された壁画が発見されたのは同年3月21日のことである。古墳は1973年4月23日特別史跡に、また極彩色壁画は、1974年4月17日国宝に指定されている。
古墳は鎌倉時代頃に盗掘を受けており、石室の南壁には盗掘孔が開けられていたが、壁画の彩色は鮮やかに残り、盗掘をまぬがれた副葬品の一部もこの時検出された。極彩色壁画の出現は考古学史上まれにみる大発見としてトップニュースとなり、文化庁はさっそく壁画の保存対策および研究調査にとりかかった。壁画発見からほどなく高松塚古墳応急保存対策調査会が設置され、発見から1か月も経たない1972年4月6日4月17日に初の学術調査が実施された。また、応急保存対策調査会とは別に、考古学、美術史保存科学などの専門家から構成される高松塚古墳総合学術調査会が設置され、1972年10月に同調査会による学術調査が実施された。
なお、高松塚古墳の埋葬施設は考古学的分類では「横口式石槨」(よこぐちしきせっかく)と呼ばれるものであるが、本項ではより一般的な「石室」の語を用いる。
古墳の年代
盗掘を逃れて残っていた銅鏡などから7世紀末から8世紀初めの終末期と推定されていたが、2005年の発掘調査により、藤原京期694年~710年の間だと確定された〔奈良新聞 2005年2月23日「築造は藤原京期-高松塚古墳」 高松塚光源〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「高松塚古墳」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.