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高松松平家(たかまつまつだいらけ)は、徳川御三家水戸徳川家の支系で、親藩・御連枝のひとつ。水戸藩初代徳川頼房の長男松平頼重を家祖とする。讃岐国高松藩の藩主家。明治以後は伯爵。 == 概要 == 松平頼重は水戸藩主・徳川頼房の長男であるが、何らかの事情で認知されず、幕府への届出が出されたのは弟の光圀が世嗣に決定した後であった。1638年に次男格として将軍徳川家光に御目見し、翌年常陸国下館に5万石を与えられた。1642年、讃岐国高松に12万石で入封される。頼重と光圀は互いの子を養嗣子に交換したので、2代目の頼常は光圀の長男であるが、頼常は子に先立たれ、3代目は頼重の孫の頼豊が継いだ。その後も水戸徳川家の第一の支流として養子の遣り取りがあり(水戸家に養子を出した唯一の連枝である)、水戸藩4代徳川宗堯は高松家からの養子であり、高松藩9代頼恕は水戸家からの養子である。また高松藩5代頼恭は、同じく水戸家の連枝である守山松平家からの養子である。 一方で高松松平家は、御三家の連枝の中では12万石と石高が突出して高く、また領地も内分分知ではなく、かつ本家所領から遠隔の地にあったため、他の水戸家の連枝3家(守山・府中・宍戸)ほど従属した立場にはなかった。江戸城での伺候席は彦根井伊家・会津松平家とともに代々の溜詰であり、幕末には前水戸藩主であった徳川斉昭と対立したこともある。1868年の鳥羽・伏見の戦いで旧幕府方について朝敵となったが、家老を処分し、藩主松平頼聰も謹慎して恭順の意を示したことにより、戦うことなく赦免された。 廃藩置県後は華族に列し、伯爵を授けられた。12代松平頼寿は30年以上貴族院の議員を務め、伯爵としては異例の貴族院議長に就いた。また、頼寿は文化・教育事業にも力を注ぎ、本郷学園を設立し、初代校長となっている。 高松松平家の分家として、松平大膳家がある。藩主一門の家系として重きをなし、4代藩主松平頼桓を出した他、徳島藩蜂須賀家にも当主(頼桓の実弟2人)を養子に出している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高松松平家」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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