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高松氏(たかまつし)は大江氏の支流である寒河江大江氏(寒河江氏)の一族で日本の氏族。居城は高松楯(現在の山形県寒河江市柴橋)。 == 概要 == 高松氏は大江親広流として初めて寒河江に定住したとされる大江元顕の、4男大江顕広を初代とする。初代顕広は二人の兄元政・懐広と共に南朝側として戦い戦死したという。高松楯は寒河江城の整備以前に建てられたもので、多田仁綱が当初政務を行った本楯(寒河江市本楯)と親広が潜居したという富沢楯(大江町富沢)のおよそ中間に位置する。また、楯から南へ1kmほどで最上川の渡し(牛前河岸の渡船場)へ至る。落衣(おとも)(寒河江市柴橋落衣)に近いため落衣館とも呼ばれた。また、兄柴橋懐広の居館柴橋楯(寒河江市柴橋)とは1kmほどの距離にあった。高松楯の規模は東西81m、南北100m、堀幅9mであり、『寒河江城古絵図』には二の丸西門そばに高松左門の屋敷があり、堀を隔てて向かい側に下屋敷があった。高松楯周辺の低湿地であった落衣・塩水の排水干拓事業を行い、一族衆として寒河江氏を輔弼した。 寒河江市高松は寒河江川中流域右岸にあり、高松左門が領主となった後高松堰が開削され長岡山西南地域を潤したという。当初の堰は規模の小さいもので最上川方面(金谷原雨池方面)に引水できなかったため、後に菊地藤五郎により拡大された。永禄8年(1565年)将軍足利義輝が松永久秀に討ち取られ、近侍していた蜷川親世〔幕府の役職は政所代であった。〕は所領を失い没落。高松左門を頼って落ち延び、出羽国村山郡金谷原(現:寒河江市柴橋)で永禄12年(1569年)11月14日に亡くなり、金谷原の土佐壇に葬られた。 慶長7年(1602年)に記録された『毛利出羽守大江高基家中覚』に「大老落衣館持 高松左門」とあり戦国時代末期まで柴橋の高松楯に起居したことがうかがわれる。なお、寒河江氏滅亡後最上氏に仕えて1500石を得ていた高松左門という者がおり、高松氏当主と思われる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高松氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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