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高柳淳之助 : ミニ英和和英辞書
高柳淳之助[たかやなぎ じゅんのすけ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [たか]
 【名詞】 1. quantity 2. amount 3. volume 4. number 5. amount of money 
: [やなぎ]
 【名詞】 1. willow 2. slim 
: [これ]
 (int,n) (uk) this
: [すけ]
 (n) assistance

高柳淳之助 : ウィキペディア日本語版
高柳淳之助[たかやなぎ じゅんのすけ]

高柳 淳之助(たかやなぎ じゅんのすけ、1882年明治15年)10月16日〔衆議院『第四十三回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1920年、12頁。〕 - 1963年)〔#外部リンク欄の「輝く茨城の先人たち 高柳淳之助」リンク先の記述を参照。二重リンクを省く。〕は、日本の実業家、元政治家著述家である。筆名に高柳 曲水(-きょくすい)、同翠崖(-すいがい)、同鬼外(-きがい)等がある。
== 人物・来歴 ==
1882年(明治15年)、茨城県行方郡要村(現在の行方市)に生まれる〔。同村の旧制・要小学校(現在の行方市立要小学校)を卒業した〔。17歳から24歳まで小学校代用教員を務め、25歳で上京し、神田駿河台国民中学会の発送係事務員となった〔。
1907年(明治40年)4月、25歳になるころ、初の著書『小学卒業立身案内』を上梓、版を重ねる。
1917年(大正6年)4月24日、自らが起こし、東京市神田区表神保町10番地の自宅に置いた出版社・富強世界社から自著『会社の内幕』を上梓した。日刊紙『時事新報』の記者であった経歴を生かしたことを前文に書いた。
1917年(大正6年)5月10日、表神保町の自宅に日本農工債券株式会社を設立した〔#外部リンク欄の「“虚業家”高柳淳之助による似非・企業再生ファンドの挫折」リンク先の記述を参照。二重リンクを省く。〕。
1918年(大正7年)、36歳のころ、母校・要小学校に1万円を寄付し、その利子で高等科の授業料が免除された〔。
1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に茨城8区から立憲政友会の候補として出馬し、当選した。
1921年(大正10年)5月、神田区小川町の自宅に高柳信託株式会社を設立した〔〔『銀行会社要録 : 附・役員録. 26版』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕。同年9月、池上電気鉄道株式会社(現在の東京急行の前身の一社)の株を買い占める〔。
同年12月12日、新治郡石岡町-同郡玉造町間の鉄道敷設を願出していた行方鉄道に対し鉄道敷設許可が下り〔「鉄道免許状下付」『官報』1921年12月14日 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕、発起人総代の高柳は1922年(大正11年)9月3日、石岡町で行方鉄道創立総会を開き、社名を鹿島参宮鉄道株式会社(現在の関東鉄道の前身の一社)とした〔『鉄道省鉄道統計資料. 大正11年度』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕 。また同年1月20日、東京市麹町区有楽町1丁目3番地に高柳第二信託株式会社を設立、同年5月2日には有楽町の同地に高柳第三信託株式会社を設立している〔。同年8月には高柳興業株式会社〔『帝国銀行会社要録. 昭和2年』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕を小川町の自宅に設立している〔。
1923年(大正12年)3月には、小川町の自宅に日本共益株式会社〔『帝国銀行会社要録. 昭和2年』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕を設立、翌月4月には同地に第二共益株式会社〔『帝国銀行会社要録. 昭和2年』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕、第三共益株式会社を設立した〔。
同年4月4日には筑波山鋼索鉄道株式会社(現在の筑波観光鉄道株式会社)を設立、社長となる。1924年(大正13年)6月8日、石岡 - 常陸小川間が開業した。1925年(大正14年)9月、高額納税者の互選選挙で同社発起人のひとり浜平右衛門とともに当選し〔議員勅任『官報』1925年9月30日 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕、貴族院議員となったが、高柳は選挙違反〔選挙区に居住していなかったという疑惑により審議にかけられていた『貴族院判決録』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕
で辞職〔「依願免議員」『官報』1926年3月6日 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕、同社の社長職も浜に譲った。
1925年(大正14年)、高柳信託、高柳第二信託、高柳第三信託を合併し、高柳金融株式会社と改称、本店を自宅に置いた〔。同年9月、詐欺、横領、公文書偽造などの疑いで自宅と事務所の家宅捜査が行なわれ、検事強制処分により市ヶ谷刑務所に収容された〔貯金魔高柳淳之助 『明治・大正・昭和歴史資料全集. 犯罪篇 下卷』有恒社、1932-1934〕。同年12月、「高柳事件」が発覚し高柳は池上電気鉄道取締役を辞任、同月31日、「高柳淳之助の四天王」と呼ばれたうち河野仙吉武井勝利小林兵庫(のちの東洋キネマ経営者、千代田区議会議長)も同社取締役を解任された〔。同事件で、高柳は詐欺容疑で検挙され、1934年(昭和9年)12月27日、控訴審で懲役2年、1935年(昭和10年)11月6日には上告が棄却されて刑が確定した〔『東京地方検察庁沿革誌』(東京地方検察庁沿革誌編集委員会、1974年)のp.391の記述を参照。〕。
1945年(昭和20年)8月15日の第二次世界大戦後、70歳代を迎えて、一般向けの経済書『家を富ます道』、『事業を生かす頭』等を上梓した。
1963年(昭和38年)、死去した〔。満81歳没。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「高柳淳之助」の詳細全文を読む




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