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梶原 一騎(かじわら いっき、1936年9月4日 - 1987年1月21日)は、日本の漫画原作者、小説家、映画プロデューサー。本名は、高森 朝樹(たかもり あさき)。高森 朝雄(たかもり あさお)の筆名も使用した。格闘技やスポーツを題材に、男の闘う姿を豪快に、ときには繊細に描き出し、話題作を次々と生み出した。自身の型破りで豪快な生き方や数々のスキャンダルでも話題を呼んだ。 1966年から『週刊少年マガジン』に連載された漫画『巨人の星』の原作者として名声を上げ、以後『あしたのジョー』(高森朝雄名義)、『タイガーマスク』など、所謂「スポ根もの」分野を確立した功績をはじめ、多くの劇画・漫画作品の原作者として活躍した。 弟は漫画原作者、空手家の真樹日佐夫。妻は高森篤子。離婚期間があり、その間台湾の有名タレント、白冰冰(パイ・ピンピン)とも婚姻関係を結ぶ。白との間に娘・白暁燕(パイ・シャオイェン)がいた。 == 経歴 == 東京市浅草区(現台東区)石浜の木賃アパートで知的でインテリ〔ただし、線の細い大人しい優等生然としたインテリではなく、権力的なものに上から押さえつけられるのを根っから嫌う反骨精神旺盛なインテリジェンスであった。〕な父・高森龍夫と情念の深い母・高森や江(旧姓:佐藤)の間に三兄弟の長男として生まれ、まもなく両親とともに渋谷区隠田1丁目(現在の神宮前4・6丁目周辺)に移った〔高森日佐志『蝮の裔の我は身なれば』 飯倉書房、1996年、p.65、p.371〕〔高森日佐志『昭和兄弟模様』 東邦出版、2010年、p.371〕。父方の祖父が熊本県高森町周辺の出身であるだけで、梶原自身と九州との関わりは宮崎県への1年の疎開と福岡県小倉市(現在の北九州市小倉)の親戚の家へ預けられたという程度である〔斎藤貴男『夕やけを見ていた男 評伝梶原一騎』新潮社、1995年、p.71〕〔植地毅、勝畑聰「スーパー劇画王烈伝〜梶原一騎らぷそでぃ」『マンガ地獄変』水声社、1996年、p.17。〕。 弟の真樹日佐夫によれば「兄の朝樹は、父方の知的な高森家と、大柄で激烈な気性な持ち主ばかりだった母方の佐藤家の遺伝子の「合作」だった」とも語っている。 幼少時から非常に凶暴で喧嘩っ早く目立ちたがり屋な気質が現れていた。戦中の昭和18年に、父の龍夫が師範科時代に在籍していた学校である私立緑岡小学校(後の青山学院初等部)に入学するものの、梶原の持つ荒い気質と学校の学風は水と油のようなもので、クラスメートや上級生の子供達とも衝突ばかり起こしていた。さらにこのころから梶原は体が大きく太り気味だったので、同級生も敵わぬと見たのか上級生とつるんで逆襲してくるため、梶原はいつも生傷が絶えなかった。その上級生を奇襲し血染めにしたことで、母親が学校から呼び出される事になり梶原はわずか1年生にして退学する事になり、家の近くの公立小学校に入れられたという。 その後、1945年に入ると東京が連合国軍機の空襲を受けることになったため、梶原を含めた高森一家は仕事のある父を東京に残し、父の叔父が住む宮崎県日向町に疎開。 東京都立芝商業高等学校中退(本人は長らく早稲田大学卒と詐称していた。例えば、ごま書房刊の「息子の鍛え方」の裏表紙には、早稲田大学卒業と記述されていた)。父の高森龍夫は、梶原の出生当時、中央公論社で校正の仕事に従事していたが、のちに改造社へ移り、編集者として活躍する。また弟の真樹日佐夫や妻の篤子によれば、梶原の両親は弟などには愛情を注いでいたのに対し、梶原がいくら頑張っても認めようとはしなかったという〔山田玲司「絶望に効く薬 敗者復活編」第32錠・高森篤子/前編より 光文社「FLASH」2010年12月21日号、p.97〕。 もともとは文学青年で小説家を志していたが〔梶原の漫画原作は小説形式だった(梶原一騎『劇画一代』毎日新聞社、1979年、p.163。清水京武「川崎のぼるインタビュー 描かれなかった後編はどんな物語だったのか!?」『こんなマンガがあったのか! 名作マンガの知られざる続編・外伝』メディアファクトリー、1999年、p.48)。〕、生活のため『チャンピオン太』などで漫画の原作を担当する日々を送っていた。『週刊少年マガジン』の当時の編集長・内田勝と副編集長・宮原照夫が梶原の元を訪れ「梶原さん、マガジンの佐藤紅緑(少年小説の第一人者)になって欲しいんです」と口説かれ『巨人の星』の原作を始めたところ、これがヒットとなったため、以降は漫画・劇画の原作に本腰を入れて取り組むようになった。 1971年に『空手バカ一代』を発表、大山倍達率いる極真空手を世に紹介した。『地上最強のカラテ』など、極真空手のプロモート映画も多数制作している。『チャンピオン太』など、実在する格闘家をモデルにした作品も多い。 1976年からは映画の制作に乗り出した。梶原原作漫画のアニメ化で親交のあった東京ムービー社長の藤岡豊、石原プロモーションで映画のプロデュースを行っていた川野泰彦と「三協映画」を設立した。「三協」の意味は「三人で協力する」という意味合いである。三協映画では、文芸路線、格闘技路線、梶原原作漫画のアニメ化の三つの路線があったが、経営的には格闘技もので上げた収益を文芸もので使い果たすことの繰り返しであった。なお、1977年に自身の原案をもとに、鈴木清順監督に10年ぶりの作品『悲愁物語』を撮らせている。 自身の漫画から産まれたキャラクター「タイガーマスク」が現実に新日本プロレスでデビューしたことが契機となって、梶原は1980年代から、かねてから縁のあったプロレス界にも深入りするようになる。 1983年5月25日、講談社刊『月刊少年マガジン』副編集長・飯島利和への傷害事件で逮捕された。この逮捕により、過去に暴力団員とともに起こした「アントニオ猪木監禁事件」や、赤坂のクラブホステスに対する暴行未遂事件(1982年3月18日)、『プロレスを10倍楽しく見る方法』のゴーストライターのゴジン・カーンから10万円を脅し取った事件も明るみに出ている。その他にもさまざまなスキャンダルがマスメディアを賑わせ、連載中の作品は打ち切り、単行本は絶版処分となり、名声は地に落ちた。〔第7回 「マガジンの軍神」梶原一騎 〕 2か月に及ぶ勾留後に保釈され、8月8日、山の上ホテルでステーキと鰻を一緒に食べた直後、倒れた。病院での診断名は壊死性劇症膵臓炎。死亡率が100%に近い、死に至る病気であり、長年のアルコール依存や暴飲暴食が祟って胆石を長時間放置し続けたために周辺臓器がすべて病んでおり、わずかな期間に手術を4回重ね、4度目の時に医師団から「あと2時間の命」とまで宣告されていた。長年培ってきた体力等から生還を果たしたが、87キロあった体重も60キロを割っていた。 1985年3月14日、東京地裁刑事第二十八部で、懲役2年、執行猶予3年(求刑は懲役2年)の有罪判決を受ける〔斎藤貴男『梶原一騎伝: 夕やけを見ていた男』p.419〕。1985年(昭和60年)、かねてからの念願だった小説家への転身を決意して、真樹日佐夫との合作で正木亜都のペンネームで小説家としての活動を開始〔『夕やけを見ていた男 評伝梶原一騎』p.381。〕。漫画原作者からの引退を宣言して、「梶原一騎引退記念作品」として自伝漫画『男の星座』(作画:原田久仁信)連載開始。掲載誌は事件後も唯一連載を打ち切らなかった『漫画ゴラク』だった〔『夕やけを見ていた男 評伝梶原一騎』p.341。〕。力道山、大山倍達などが実名で登場する中、著者自身実名ではなく「梶一太」と名をつけ、その青春遍歴のドラマを赤裸々に描き、同時にこれまで見られなかったほどの飄々たるユーモアも漂わせながらライフワーク的な作品となるはずであったが、1987年(昭和62年)年明けに体調不良となって入院し、1月21日午後12時55分、東京女子医大病棟一室にて死去、病室には辞世の句が残されていた。【吾が命 珠の如くに慈しみ 天命尽くば 珠と砕けん】。 『男の星座』は未完に終わった(浅草キッドの著書『お笑い男の星座』の題名は、この作品へのリスペクトである)。 死後数年間は梶原について語ることをタブー視される風潮が見られたが、梶原の再評価の機運が高まるのは、1990年代半ばになってからである〔竹内オサム『戦後マンガ50年史』筑摩書房、1995年、p.172〕。 2005年の東京アニメアワードにて、特別功労賞(原作者部門)を受賞した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「梶原一騎」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Ikki Kajiwara 」があります。 スポンサード リンク
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