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高橋 重賢(たかはし しげかた)は、江戸時代後期の旗本。通称・三平。幼名・吉之丞。号・竹里。蝦夷地の前期幕領時代に10年余り箱館(松前)奉行支配吟味役として働き、ゴローニン事件では日本側代表としての交渉相手となった。その後、佐渡奉行、松前奉行、長崎奉行などを歴任。長崎奉行時代にはシーボルトに協力し、鳴滝塾の開設を許可した。 == 経歴 == 1758年(宝暦8年)、普請役・勘定などを務めた高橋方政(のりまさ)の長男として生まれる〔。 1797年(寛政9年)12月28日、部屋住から勘定に取り立てられる〔。1799年(寛政11年)、東蝦夷地が仮上知されると蝦夷地御用を命じられ〔休明光記 p.35〕、羽州酒田仕入物御用取扱を担当する〔休明光記 p.41〕。この頃、高田屋嘉兵衛と知り合う。同年12月、家督相続。 1802年(享和2年)、箱館奉行(1807年(文化4年)に松前奉行へ改称)が設置され、10月18日、奉行に次ぐ役職である吟味役となる〔休明光記 p.131〕。1807年に西蝦夷地が上知され松前藩が転封となり、9月27日、松前藩からの領地引渡しに立ち会う〔休明光記 p.204〕。1813年(文化10年)、ゴローニン事件の処理に携わり解決に導く。長期に亘り吟味役を務めたが、当時の記録には、高橋が短期で交代する奉行を飾り物にし、恣意をほしいままにしていたかのように記述しているものもあった。 1814年(文化11年)12月27日、西丸御納戸頭となる〔通航一覧附録 p.365〕。1818年(文政元年)2月8日、佐渡奉行となり〔、50俵3人扶持から家禄200俵へ加増。1820年(文政3年)3月8日、松前奉行となり、300俵へ加増〔。同月15日、越前守となる〔。在任中の1821年(文政4年)12月7日、松前藩が蝦夷地に復領する〔通航一覧附録 p.317〕。 1822年(文政5年)6月14日、長崎奉行となる〔通航一覧附録 p.366〕。1826年(文政9年)5月1日、江戸参府したオランダ商館長・ステュルレルが将軍・徳川家斉への謁見直後に、江戸在勤であった重賢に対し日蘭貿易に関する嘆願書を直接提出する事件が起こる。重賢は責任を問われ、同月24日、長崎奉行を罷免され西丸新番頭となる。1833年(天保4年)4月、日光奉行となる。同年8月26日〔『北海道史研究 』(第1~10号、1973年) p.68〕、在職中に死去〔徳川幕臣人名事典, p.386〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高橋重賢」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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