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高橋 健三(たかはし けんぞう、安政2年(1855年)9月-明治31年(1898年)7月22日)は、明治期のジャーナリスト・官僚・政治家。 == 経歴 == 江戸で元尾張藩士であった浪人高橋大蔵の子に生まれる。後に父が戸田氏に仕官して下総国曾我野藩士となる。明治3年(1870年)曾我野藩の貢進生に選ばれて大学南校(東京大学の前身の一つ)に入学する。明治11年(1878年)、東京大学を中退し、翌年官途につく。以後、駅逓局・文部省を経て、明治16年(1883年)に太政官官報報告掛に任じられて官報の創刊に参画する。内閣制度発足と同時に官報局次長に任じられ、明治22年(1889年)3月に官報局長に任じられた。 岡倉覚三(天心)と親交があり、月刊美術誌国華の創刊に参画している。 元同僚である陸羯南とともに国家主義に転じ、明治25年(1892年)11月に官報局長を辞任、翌明治26年(1893年)1月に大阪朝日新聞に入った。かつて官報局長だった時代にフランスに派遣されて帝国議会の議事録制作用に最新式のマリノニ式印刷機を購入する際に、時同じく購入交渉中であった大阪朝日新聞の分の交渉も合わせて行った経緯があり、待遇も客員の論説委員ながら、実際には主筆と同格に扱われた。同年秋に同紙に連載した『内地雑居論』で内地雑居反対を主張して反響を呼んだ。同紙以外にも国家主義の観点から執筆を行い、また大阪朝日新聞系の雑誌である『二十六世紀』の編集責任者となった。 明治29年(1896年)9月に第2次松方内閣が発足すると、陸羯南の推挙によって内閣書記官長に任じられる。ところがその2ヶ月後、陸の『日本』が以前『二十六世紀』に掲載された高橋の土方久元宮内大臣を批判する記事を転載したところ、内務省より『二十六世紀』が発売禁止処分を受けた。政府高官の論文が原因で発売禁止になると言う事態に加えて、高橋はこれに憤慨して新聞紙条例の改正(新聞・雑誌の発売禁止規定の廃止)を図ろうとし、政府に参加していた進歩党も高橋を支持したため、政府内外で論争となった。内閣の崩壊を恐れる黒田清隆ら薩摩閥の計らいで高橋の要求が認められて事態の収拾が図られたが、翌明治30年(1897年)10月に進歩党が政権を離脱すると、行き掛かり上高橋もこれに同調して辞任した。 その後、大阪朝日新聞に復職するが、内閣書記官長辞任からわずか9ヶ月後の明治31年(1898年)7月に肺結核のために神奈川県小田原の別荘で42歳の若さで没した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高橋健三」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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