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高橋定 : ミニ英和和英辞書
高橋定[たかはし さだむ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [たか]
 【名詞】 1. quantity 2. amount 3. volume 4. number 5. amount of money 
: [はし, きょう]
 【名詞】 1. bridge 

高橋定 : ウィキペディア日本語版
高橋定[たかはし さだむ]

高橋 定(たかはし さだむ、1912年(大正元年)12月 - 2015年12月25日)は、日本海軍士官、艦上爆撃機操縦士。元海上自衛官、海将。
== 経歴 ==
1912年(大正元年)12月、愛媛県松山市で6人兄弟の3男として生まれた。松山中学では剣道は初段、サッカーではキャプテンを務め四国大会で優勝した。医者志望であったが、兄の勧めで1930年(昭和5年)4月海軍兵学校61期生として入学し、1933年(昭和8年)11月卒業した。「磐手」で遠洋航海を行った後「加古」「多摩」乗組みを経て、1935年(昭和10年)10月飛行学生として霞ヶ浦海軍航空隊1936年(昭和11年)12月には艦爆の延長教育課程を大村海軍航空隊で受け、1937年(昭和12年)4月佐伯海軍航空隊に配属された。
1937年(昭和12年)7月7日に蘆溝橋事件が発生すると直後に編成された第十二航空隊に配属され、7月12日に隊長江草隆繁大尉のもと九四式艦上爆撃機大連近郊の周水子基地に進出した。8月には戦火は上海に飛び火し高橋ら12空は9月5日に占領、造成を終えたばかりの上海公大基地に移動した。移動当初は上海付近制圧の陸戦協力、その後南京空襲に当たった。
同年12月霞ヶ浦空教官、1938年(昭和13年)12月「龍驤」分隊長を経て1939年(昭和14年)10月20日、第十四航空隊艦爆隊長となり珠海三灶に転属。南支作戦が始まり11月11日には海口1940年(昭和15年)初めには南寧に進出し、貴陽攻撃などに従事した。
1940年(昭和15年)12月筑波海軍航空隊分隊長。太平洋戦争が始まると1942年(昭和17年)1月第三十一航空隊副長兼飛行長となった。2月フィリピンニコルスフィールド基地に進出し、バターン半島コレヒドール島要塞の米軍攻撃に当たり、4月にはセブ島に移り付近海上の哨戒に当たった。
6月、「瑞鶴」の飛行隊長となった。8月24日の第二次ソロモン海戦では第2次攻撃隊隊長であったが、敵艦隊を発見できずに引き返した。10月26日の南太平洋海戦では第1次攻撃隊として発進したが、敵機動部隊上空で戦闘機の攻撃により被弾、洋上不時着し、約一昼夜漂流したのち日本のタンカーに救助された。
1943年(昭和18年)3月、い号作戦に伴い高橋は艦爆21機を率いてラバウルに進出した。4月8日ツラギ沖船団攻撃(フロリダ沖海戦)、11日オロ湾攻撃〔戦闘詳報による。『飛翔雲』では"ラエ湾船団攻撃"となっている。〕を行った後、4月18日にはトラック島の瑞鶴に帰還した。
8月1日、横須賀海軍航空隊飛行隊長に転属となり内地に帰還。1945年(昭和20年)7月11日、5航艦隷下32航戦の航空参謀として、九州・四国の秘密特攻基地の建設に当たっていたが、8月15日終戦。
終戦後宇和島市にある母の実家に帰郷。11月、郡中港で進駐軍兵への傷害事件を起こし、1953年(昭和28年)5月まで知り合いに匿われながら逃亡生活を送った。
1953年(昭和28年)海上自衛隊(当時は警備隊)に入隊。航空畑を歩み1970年(昭和45年)1月1日退官、最終階級は海将。退官後は全日空顧問を務めた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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