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高橋岩太郎 : ミニ英和和英辞書
高橋岩太郎[たかはし いわたろう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [たか]
 【名詞】 1. quantity 2. amount 3. volume 4. number 5. amount of money 
: [はし, きょう]
 【名詞】 1. bridge 
: [いわ]
 【名詞】 1. rock 2. crag 

高橋岩太郎 : ウィキペディア日本語版
高橋岩太郎[たかはし いわたろう]
高橋 岩太郎(たかはし いわたろう、1912年1月25日 - 2002年)は日本ヤクザ右翼活動家。日本国粋会落合一家六代目総長。東京都中野区本町出身。
== 終戦まで ==
明治45年(1912年)1月25日、東京府東多摩郡中野町(現:東京都中野区本町)で生まれた。実家は、農業と酒造業を営む旧家だった。
大正12年(1923年)、高橋岩太郎は、中野の桃園尋常小学校を卒業後、東京府立第六中学校(現:東京都立新宿高校)に進学した。
同年9月1日昼、高橋岩太郎は、自宅の裏の鶏小屋で卵を取っていた。同日午前11時58分44秒、関東地震が発生し、関東大震災に発展した。東京府立第六中学校は半年間休校となった。高橋岩太郎は、休校の間に、酒、煙草、博打を覚え、喧嘩に明け暮れるようになった。
大正14年(1925年)、高橋岩太郎は、喧嘩で相手を刺傷した。高橋岩太郎は、東京府立第六中学校から放校処分を受けた。高橋岩太郎は、実家を飛び出し、愚連隊に身を投じた。その後、高橋岩太郎は、警察から追われるようになり、新宿を離れて、不良仲間だった高円寺の藤井の家に転がり込んだ。幸平一家中野新井の貸元・大草宇一の若衆が藤井の家に出入りしていた。高橋岩太郎は、その大草宇一の若衆の紹介で、大草宇一と知り合った。
昭和4年(1929年)、高橋岩太郎は、背中に「野ざらし」(長襦袢の袖口から両手を出した足のない幽霊と「南無阿弥陀仏」の文字が入った絵)の図柄の刺青を入れ始めた。
昭和5年(1930年)5月、大草宇一は、大草の妾の住む沼袋の家に、何日も顔を見せなくなった。高橋岩太郎は、大草宇一の妾から、大草宇一の捜索を依頼された。高橋岩太郎は、東京市牛込区細工町にある鉄火場・牛込三助部屋を訪ねたが、大草宇一は見つからなかった。牛込三助部屋で、高橋岩太郎は、「大草宇一が、賭場で、幸平一家の東京府豊多摩郡戸塚町(現:新宿区早稲田)の貸元・高山寅吉(後の幸平一家七代目)の代貸・石川三郎と金銭の貸し借りで揉め、石川三郎にビール瓶で殴られて、怪我を負った」ことを聞かされた。同月、高橋岩太郎は、千住で床屋を営む大草宇一の実姉の家で、大草宇一を発見した。高橋岩太郎は、大草宇一の頭に巻かれた包帯を見て、石川三郎を殺害することを決意した。同月、高橋岩太郎は、あいくちを懐中に隠して、豊多摩郡戸塚町の石川三郎の賭場の前に張り込み、石川三郎の姿を待った。高橋岩太郎は、石川三郎の顔を知らなかったため、表に「石川三郎様」と書いた偽封筒を用意していた。同日午前2時ごろ、石川三郎の賭場があがった。高橋岩太郎は、客が賭場から出て行った後、5、6人の集団が歩いて来るのを確認した。高橋岩太郎は、その集団の前に進み、浅草の若い衆だと偽り、偽封筒を取り出して、「この封筒を石川三郎に直に渡して欲しいと頼まれた」と云った。集団の真ん中にいた男が、「自分が石川三郎だ」と名乗った。高橋岩太郎は、偽封筒を渡すふりをしながら、あいくちで石川三郎を刺した。石川三郎が倒れると、高橋岩太郎は逃走した。高橋岩太郎は、橋から小川に飛び込み、橋の下に身を隠した。高橋岩太郎は、橋の下で追っ手をやり過ごした。それから、高橋岩太郎は、大きな屋敷の庭に忍び込み、庭の植え込みの陰に隠れて、夜明けを待った。高橋岩太郎は、夜明けとともに、屋敷を出て、省線高田馬場駅にたどり着いた。高橋岩太郎は、線路伝いに、新宿2丁目に向かい、関東国粋会城西支部の事務所を訪ねた。高橋岩太郎は、関東国粋会城西支部の小金井一家新宿二代目・平松兼三郎に面会した。高橋岩太郎は、平松兼三郎に、「石川三郎襲撃は自分の一存で行ったことで、大草宇一に迷惑がかからないように取り計らって欲しい」と訴えた。平松兼三郎は、関係者に電話をかけた。二時間ほど後、平松兼三郎は、高橋岩太郎に、石川三郎が生きていることを伝えた。すぐに、石川三郎の若衆たちが、関東国粋会城西支部の事務所に押しかけてきて、高橋岩太郎を渡すように要求した。平松兼三郎は、石川三郎の若衆の要求を拒否した。平松兼三郎は、東京・洲崎武部申策生井一家五代目・井上吉五郎の舎弟)の若衆・沼田寅松に仲裁人を依頼した。翌日、沼田寅松は、東京・椎名町の幸平一家六代目・足立勘助総長の自宅を訪ねて、足立勘助から一任を取り付けた。その後、高橋岩太郎は左手の小指を詰めた。
昭和6年(1931年)、高橋岩太郎は、賭場で同門の幸平一家の者を斬り、幸平一家から追放された。高橋岩太郎は、再び高円寺の不良仲間・藤井の家に転がり込み、愚連隊に身を投じた。
同年、警視総監丸山鶴吉は、初めて、大規模な暴力団摘発を実施した。高橋岩太郎は、杉並警察署に逮捕され、市ヶ谷拘置所に移送された。高橋岩太郎は、大陸浪人を自称する黒田と同房になった。黒田は、高橋岩太郎に、12、13人分の汚物が入った桶を表に出させたりした。高橋岩太郎は、29日間の拘留の末、黒田より早い釈放となった。それから、高橋岩太郎は、高円寺で通行人に絡んでいた黒田と出会った。高橋岩太郎は、飛び出しナイフで、黒田の左頬と右頬を切り裂き、腹部を刺した。高橋岩太郎は、杉並警察署に自首した。黒田は、落合一家大竹仙太郎(落合一家渋谷大和田の貸元・山田重吉の養子で、山田重吉の娘婿。後の落合一家五代目総長)に説得されて、告訴しなかった〔当時、傷害罪は親告罪だった〕。高橋岩太郎は、送検されず、20日間の拘留の末、釈放された。
その後、高橋岩太郎は、新宿で、大竹仙太郎と会った。大竹仙太郎は、高橋岩太郎が愚連隊にいることを知ると、高橋に落合一家に遊びに来るように誘った。高橋岩太郎は、これを契機に、大竹仙太郎のもとで、博打打ちの修業に励むことになった。当時、落合一家は、四代目・菅沼清兵衛(通称:喧嘩清兵衛)の時代だった〔落合一家は、初代が落合円次郎(通称:広尾の円次)、二代目が安藤兵太郎(落合円次郎の舎弟分)、三代目が松原富蔵(安藤兵太郎の子分)だった〕。
このころ、高橋岩太郎は、目黒・駒場で開帳された常盆で、立ち番(警察の手入れを防ぐための見張り、及び、警察に踏み込まれたとき、賭場の客を逃がすための食い止め役)を務めた。この日の常盆が、警察隊の手入れを受けた。賭場の客は逃げられたが、大竹仙太郎一門の代貸以下多くが捕まった。高橋岩太郎は、右手の小指を詰めて、大竹仙太郎に詫びを入れた。
それから、高橋岩太郎は、目黒での賭場に、警察の手入れが入った際に捕まり、懲役6ヶ月の判決を受けて、服役した。出所後、高橋岩太郎は、青山ノルウェイ公使館での賭博開帳図利罪で逮捕された。高橋岩太郎は、巣鴨拘置所に拘留されて裁判を受け、懲役1年の判決を受けて、府中刑務所に服役した。
昭和11年(1936年)、高橋岩太郎は、3年間の部屋住み修業を終えた。高橋岩太郎は、大竹仙太郎から盃をおろしてもらって、大竹の若衆となった。同時に、高橋岩太郎は、賭場の一部を責任者として任された。
同年、大竹仙太郎の若衆・宮本が、目黒・駒場の大竹仙太郎の賭場に、酔っ払ってやって来た。大竹仙太郎は、宮本に賭場から帰るように云った。宮本は懐からあいくちを取り出した。賭場の梯子番が、宮本からあいくちを取り上げた。大竹仙太郎の若衆2人が、宮本を賭場の外に連れ出した。翌日の夜明け、高橋岩太郎は、大竹仙太郎の若衆・水岡辰也(高橋岩太郎の愚連隊時代の舎弟)と大竹仙太郎の若衆・堀川義生(高橋岩太郎の舎弟格)とともに、5人の見届け役を引き連れて、目黒・駒場の宮本の自宅を襲撃した。水岡辰也が、日本刀で、2階に寝ていた宮本を切りつけた。宮本は、水岡辰也の攻撃をかわして、布団を被ったまま雨戸を破って外に出て、2階のひさしを伝って地面に飛び降りた。高橋岩太郎、水岡辰也、堀川義生は、宮本を追った。宮本は、目黒・松見坂の橋の上で、力尽き倒れこんだ。高橋岩太郎、水岡辰也は、宮本に追いつき、日本刀で宮本を斬った。3日後、宮本は、破傷風を併発して死亡した。水岡辰也と堀川義生が、高橋岩太郎を庇って、目黒警察署に自首した。水岡辰也は懲役3年の判決を受けた。堀川義生は懲役2年に、執行猶予5年の判決を受けた。
昭和12年(1937年)、高橋岩太郎は、大竹仙太郎から、自分の事務所を持つことを許された。
同年、大竹仙太郎は約1ヶ月の予定で、満州国に遊びに出かけた。大竹仙太郎は、留守を高橋岩太郎に任せた。賭場に出入りしていた替え銭屋(賭場で貸元の許可を得て、両替や金貸しの商売をする者)の婆さんが、大竹仙太郎の賭場の上客を引っ張って、内会(土地の貸元に内緒で打つ博打)の博打を開帳した。高橋岩太郎は、替え銭屋の婆さんが、渋谷・円山町の待合で開帳していることを突き止めて、円山町の待合の前に張り込んだ。博打が終わって客が出て行った後、高橋岩太郎は、脇差しを抜いて、替え銭屋の婆さんを襲った。替え銭屋の婆さんは、待合の玄関に逃げ込んだ。高橋岩太郎は、待合の玄関で、脇差しで替え銭屋の婆さんの背中を斬った。高橋岩太郎は、2度と内会をしないように、替え銭屋の婆さんを脅した。高橋岩太郎は、脇差しを持って、渋谷警察署に自首した。
高橋岩太郎は、渋谷警察署の留置場で吐血した。高橋岩太郎は、刑の執行が停止され、渋谷・道玄坂の大友病院に入院した。高橋岩太郎は、肺結核だった。高橋岩太郎は、大友病院に長期入院した。
その後、高橋岩太郎は、湯河原の博打専門旅館「曙」で、磧上義光(後の住吉一家四代目総長。港会会長)と知り合った。高橋岩太郎と磧上義光は、湯河原や熱海箱根の賭場で、博徒らに対する恐喝を繰り返し、博徒らから金銭を奪った。高橋岩太郎と磧上義光は、銀座篠原縫殿之助に頼んで、旅館代を支払ってもらった。
昭和13年(1938年)、高橋岩太郎と磧上義光の恐喝が、湯河原に遊びに来ていた上萬一家貸元・磧上義朝(磧上義光の兄。通称:傷義)に伝えられた。磧上義光は、高橋岩太郎と磧上義光に、東京に帰るように命令した。
同年、高橋岩太郎は、落合一家恵比寿の貸元・富岡倉吉〔落合一家三軒茶屋初代・富岡辰五郎の実子。富岡辰五郎は、落合一家初代・落合円次郎の腹違いの弟だった〕の養子となり、富岡倉吉の末娘と結婚した。
同年ごろから、愚連隊やヤクザと思しき人物は、警察に逮捕され、29日間の拘留を受けるようになってきた。高橋岩太郎は、賭場の客・沢田に頼み込んで、空き瓶の回収業を始めた。
昭和15年(1940年)、高橋岩太郎は、大竹仙太郎お供で、浅草の料理屋に入った。高橋岩太郎は、大竹仙太郎の紹介で、芸妓のお松と知り合った。それから、高橋岩太郎は、お松を目当てに、浅草に通った。同年、高橋岩太郎は、恵比寿で、舎弟に制裁を加えて、傷害事件を起こし、渋谷警察署から指名手配を受けた。高橋岩太郎は、お松の家(お松の姉が経営する置屋)に身を隠した。傷害事件は示談になったが、高橋岩太郎はお松の家に住むようになった。
昭和19年(1944年)、高橋岩太郎は、召集令状を受け、教育召集として、東京・赤羽の工兵隊に入営した。同年、高橋岩太郎は、便所で、同じ班の上等兵を丸太で殴り倒したため、3日間営倉入りとなった。高橋岩太郎は、入営して3ヶ月後、教育召集が終わり、除隊となった。その後、赤羽の工兵隊の班長が、浅草のお松の家を訪ねてきた。高橋岩太郎は、班長に、かねてから班長のために用意していた軍刀を贈った。
昭和20年(1945年)、関東国粋会は、「武蔵挺身隊」を設立し、東部軍に協力した。高橋岩太郎も、武蔵挺身隊に所属し、防空壕掘りなどに従事した。同年8月15日、高橋岩太郎は、玉音放送で「終戦詔書」の音読放送を聴いた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「高橋岩太郎」の詳細全文を読む




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