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高橋康友 : ミニ英和和英辞書
高橋康友[たかはし やすし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [たか]
 【名詞】 1. quantity 2. amount 3. volume 4. number 5. amount of money 
: [はし, きょう]
 【名詞】 1. bridge 
: [とも]
 【名詞】 1. friend 2. companion 3. pal 

高橋康友 ( リダイレクト:李康友 ) : ウィキペディア日本語版
李康友[り こうゆう]

李 康友(り こうゆう、1913年5月8日 - 1990年1月3日)は、日本の実業家である〔年鑑, p.177.〕〔年鑑, p.15. 26, 136.〕〔年鑑, p.401.〕〔初代李康友会長 東京韓国商工会議所、2013年7月22日閲覧。〕〔戦後日韓関係の形成とその経済的側面 柳町功九州大学、2013年7月22日閲覧。〕。三亜薬品工業(現在の日本ベーリンガーインゲルハイム)創業者・社長、東亜興行創業者・社長〔〔〔〔会社概要 東亜興行、2013年7月23日閲覧。〕。東京韓国商工会議所初代会長、在日韓国商工会議所初代会長を歴任した〔〔。日本名は高橋 康友(たかはし こうゆう)、おもに映画界では日本名を名乗った〔〔〔。冬柏章受章者〔。
== 人物・来歴 ==
1913年大正2年)5月8日日本統治時代の朝鮮慶尚南道昌原郡東面(現在の大韓民国慶尚南道昌原市義昌区東邑)に生まれる。
長じて東京に移住し、星薬科大学を卒業する。1945年(昭和20年)8月15日の第二次世界大戦終結後も東京に残り、翌1946年(昭和21年)には、中野区鷺宮に三亜薬品工業株式会社を設立、胃腸薬「イモール」の製造販売を行った。1949年(昭和24年)8月には、東亜興行株式会社を創業、杉並区阿佐谷に映画館「阿佐谷オデヲン座」を開業する〔〔。1950年(昭和25年)12月に「中野オデヲン座」、1951年(昭和26年)11月に「新宿オデヲン座」をそれぞれ開業した〔。同年のこの「新宿オデヲン座」の開業は、1947年(昭和22年)12月に林以文が開業した「新宿地球座」(のちの新宿ジョイシネマ)に次ぐ、歌舞伎町進出第2号であった〔キネ旬, p.52, 56-59.〕。その後も「荏原オデヲン座」(1952年4月)、「下北沢オデヲン座」(1952年5月)、「高円寺平和劇場」(1954年9月)、「吉祥寺オデヲン座」(同年同月)と次々に映画館を新築・開業〔、佐々木興業佐々木進、森本興行部の森本吉太郎と比較され、なかでも高橋(李)は、「目ざましい」(『キネマ旬報』)〔キネ旬, p.78.〕、「東京でも屈指の映画事業」〔と評された。翌1955年(昭和30年)12月には、歌舞伎町511番地(現在の歌舞伎町1丁目20番2号)に「グランドビル」(のちの第一東亜会館)を竣工・開館し、「グランドオデヲン座」を開業、「新宿オデヲン座」をその地下に移転し、旧オデヲン座跡地(歌舞伎町879番地、現在の歌舞伎町1丁目21番1号)ではダンスホールパチンコパーラーを経営した〔〔。
1960年(昭和35年)12月27日、足立正日本商工会議所会頭)、植村甲午郎経団連副会長)、徐甲虎阪本紡績社長)とともに発起人となり、日韓経済協会を設立、足立が顧問、植村が初代会長となり、李は、徐や安藤豊禄小野田セメント社長)とともに副会長に就任した〔。1961年(昭和36年)5月20日、東京韓国商工会議所を設立、初代会長に就任するとともに、副会長に(モナミ社長)、辛格浩(重光武雄ロッテ製菓社長)、呉炳寿在日本大韓蹴球協会初代会長)、専務理事に柳東烈がそれぞれ就任した〔。李は地方商工会設立に1年間奔走し、1962年(昭和37年)2月22日には結成大会を開き、在日韓国人商工会連合会(現在の在日韓国商工会議所)を結成、初代会長に就任した〔〔。同年8月3日には、東京韓国商工会議所の定期総会を開き、会長を引退、にその座を譲った〔。1963年(昭和38年)12月15日に開かれた在日韓国人商工会連合会の緊急総会で会長を引退し、名誉会長だった徐甲虎とともに顧問に就任、が会長代理に就任した〔〔。同日、同連合会は、在日韓国人経済連合会(韓経連)を吸収合併した〔。許は、翌年4月に二代目会長に就任している〔〔。またこのころ、韓国のソウル市の「国際劇場」(、1985年閉館)を現地の映画会社を通じて経営したとされる〔パク, p.17.〕。
1967年(昭和42年)11月には、北区に「東十条東亜会館」(東十条オデヲン座)、1968年(昭和43年)12月には同じく「赤羽東亜会館」(赤羽オデヲン座・赤羽映画劇場)、1969年(昭和44年)4月には、旧新宿オデヲン座跡地に「第二東亜会館」(歌舞伎町東映劇場、新宿ゲームセンター、新宿トーアボウル)を新築・開業した〔。1972年(昭和47年)7月には、「荻窪東亜会館」(荻窪トーアボウル、荻窪オデヲン座、荻窪映画劇場)を新築・開業、これが現在の東亜興行の本社屋となった〔。このころには三亜薬品工業においては、すでに社長から会長に就任していた〔民族, p.12.〕。
1978年(昭和53年)には「吉祥寺オデヲン座」(1954年9月開館)をいったん閉館して取壊し、同年10月には、跡地に「吉祥寺東亜会館」を新築・開場、同会館内に「吉祥寺オデヲン座」を再開業したほか「吉祥寺スカラ座」「吉祥寺セントラル」「吉祥寺東宝」の合計4館の映画館、および吉祥寺ゲームセンターを新装して開場した〔。同会館は、東亜興行が映画館事業を縮小した現在、唯一の映画館サイトとして残っている〔事業内容 、東亜興行、2013年7月23日閲覧。〕。同年、韓国政府から国民勲章冬柏章が授与された〔。1981年(昭和56年)5月29日には東京韓国商工会議所の創立20周年式典が開かれ、、辛格浩とともに「創立功労者に対する功労牌及び記念品」が授与された〔東京韓商News9号 、東京韓国商工会議所、2010年10月付、2013年7月22日閲覧。〕。1987年(昭和62年)、東亜興行の社長職を専務取締役の大谷晴通(大谷青道)に譲り、会長に就任する〔。
1990年(平成2年)1月3日、東京都内で死去した〔。満76歳没。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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