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高橋 正作(たかはし しょうさく、享和3年10月28日(1803年12月22日) - 明治27年(1894年)6月23日)は日本の江戸時代後期の出羽国雄勝郡(後の羽後国、現在の秋田県湯沢市)南部の村長。私財を投じて天保の大飢饉から農民を救い、院内銀山を日本一の銀産出量を記録させるまでに復活させた。 == 功績 == 小野小町出生伝説で知られる秋田県湯沢市雄勝地区は、横手盆地の最南端にあり、宮城県と山形県の県境に近い。いで湯が湧き、地酒が造られ、雪のような素肌の清楚な美人が多い。だがここに、天保4年(1833年)秋田で40万人のうち、10万人が餓死したという未曾有の大飢饉が襲った。その時、30歳の肝煎(村長)高橋正作は、全私財をなげうって食糧を求め、村人550人余を飢えから救う決断をした。私財を担保に資金を借り、いち早く米穀を求めるため、幾晩も眠らず、血眼になって各地を奔走。ついに食糧を得て、村から一人の餓死者も出さなかった。 折しも院内銀山には、食糧を求めて全国各地から難民が集まり、その労働力で、大量の銀鉱石が掘り出された。だが銀鉱石から銀を精練するための燃料になる炭の生産が追いつかず、炭不足で閉山寸前に追い込まれていた。飢饉のため、炭焼きをする人々が衰弱し、働けなくなっていたからだ。このままだと秋田の重要な財源である院内銀山が危うい。と同時に秋田の経済が破たんしかねない。江戸幕府も窮乏する。そこで正作は、まだ元気な自分の村をはじめ、周辺の村々に炭焼きをすすめ、院内銀山に炭を送ろうとした。そして炭の請負契約を成立させるため、銀山や役所を何度も往復した。時は初冬。荒野で暴風雨にあい、草鞋が切れて、足から血が吹き出たこともあった。だが正作は、ひたすら走った。こうして炭の販売が行われ、銀山は復活し、日本一の銀産出量を記録。秋田をはじめ、日本の経済が潤った。しかも長引く飢饉にあいながらも、人々は、炭を売った代金で生きのびた。 文久3年(1863年)、歌人を志し家出した19歳の石川理紀之助が、この地で、61歳の正作と巡り逢い、その人間の大きさに感激し、自らの人生の方向を決めた。「自分は、弱い立場の民衆を命がけで救済した正作翁のような農業指導者になりたい。民衆を救う生涯こそが、歌人よりも尊い」と志を抱いた。以来、理紀之助は正作から教えを受け、父のように慕ったという。その後の理紀之助の足跡は、窮民を命がけで救った師・正作の生き方に似ている。 77歳の時、理紀之助に懇願され、秋田県の勧業御用係(県の農業指導者)の筆頭として、横手盆地を開墾させ、日本有数の米どころに変えた。さらに県内をくまなく回り、農業全般にわたって長年の豊富な体験に基づく実践指導に専念した。著書や種苗交換会では、稲作や畑作、開墾、養蚕、飢饉対策などを具体的に説明し、我が国の農業近代化に貢献した。広く全国に配布された著書『除稲虫之法』で農薬をいち早く否定し、『農業随録』では、飢饉対策として食糧の備蓄を第一に唱えた。現在、百数十年の歴史を数える秋田県種苗交換会の勧業談会(談話会)には、初回から14回まで指導者として参加し、理紀之助を支えながら、その土台づくりに心血を注いだ。 正作の子孫が暮らす高橋家には、むつまじい師弟関係を伝える和歌の短冊が残されていた。(現在は秋田県湯沢市教育委員会で保管)「ふた葉よりかくはしき樹のかけしけり君はよそちの老の初花 正作」。最愛の弟子理紀之助が40歳になったのを祝った歌だ。すると理紀之助が正作に賛辞を送った。「雲ゐまてきこえあケたる此君ハあきたあかた(秋田県)の宝なりケり 理紀之助」 明治27年(1894年)92歳で没。号泣する理紀之助が、県内92カ所で、正作の追悼法要を行った。 『村守る、命かけてもー聖農・高橋正作 伝ー』簗瀬均 著 秋田魁新報社より 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高橋正作」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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