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高橋 正雄(たかはし まさお、1887年5月5日 - 1965年5月25日)は宗教家、哲学者、教育者。 金光教第二世代の代表的人物。金光教学院長として数多くの若者を育てるとともに、金光教教監(現在の教務総長に相当する役職)として現在の金光教団の基礎を確立し、現在の金光教に続く結界取次を中心とする人間の生き方や、ゆるやかで自己内省的な教義を広めた。 ==来歴== *1887年 - 岡山県井原市に生れる。金光教の三直信である佐藤範雄の親友高橋茂久平の長男で、金光中学を経て、1908年、早稲田大学哲学科卒業。その後、研究生として一年間早稲田に在籍する。その間に金光教青年会を組織した。 *1910年 - 金光教教師となる。この年から翌年にかけて教祖御略伝編纂委員会の資料調査にあたる。この記録が後に金光教教典と金光教祖の伝記の資料となった。 *1912年 - 金光教の新聞創刊に携わり、財団法人になる「金光教徒社」を佐藤一夫らと設立。翌1913年「金光教徒」(現在の「金光新聞」の前身)を刊行する。 *1917年 - 一燈園の西田天香が金光教本部に来た際に面談し、信仰と生活において自らを観察し省みる修行を木綿崎山中の小屋で行う。 *1918年 - 現在のNPOの先駆けとなる非営利企業「備中大谷製麺株式会社」の設立に携わり、吉備乃家の藤井新(ふじい あらた)と共に「新生舎」という合宿所を営み、修行と奉仕の生活をおくる。 *1926年 - JOBKで講話を放送、金光教におけるラジオ放送の先駆けとなる。 *1935年 - 金光教団の瓦解の危機であった「昭和9年10年事件」において、金光教教監に任命され、後に「教団自覚運動」と名付けられる金光教の信仰形態の確定に尽力。(在職6年間) *1951年 - 再度金光教教監に任命(1954年まで)、翌1952年、金光教学院長にも併せて任命される。 *1963年 - 金光教教主金光攝胤死去に伴い、信仰の柱として金光教教監に任命され、教主の葬儀を執り行い、新教主金光鑑太郎を補佐する。 *1964年 - 前金光教教主夫人金光キクヨ死去、葬儀を執り行う。 *1965年 - 死去。(教監在籍3回、通算10年10ヶ月)教主に準じた金光教葬にて葬儀は行われた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高橋正雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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