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高橋 武夫(たかはし たけお、旧姓:木村、1947年5月13日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはFW。 == 略歴 == === 現役時代 === 東京都品川区で生まれ〔『週刊サッカーマガジン』2008年11月18日号〕、小学4年生の時に埼玉県蕨市に引越す。少年時代から運動能力が高く中学時代から本格的にサッカーを始めると、この当時からフォワードを務めていた。高校は埼玉県立川口高等学校へ進学し、2年次の高校選手権予選では決勝へ進出したが、浦和勢の牙城を崩して全国大会へ出場する事はかなわなかった。 全国的には無名の存在だったが3年次にAFCユース選手権の選考を兼ねた高校地域選抜大会に埼玉県選抜の選手として参加。ここでのプレーが日本ユース代表監督の平木隆三に認められ、翌1965年のアジアユース代表に選ばれた。 卒業後、アルミ器物を製造している東新プレス工業に入社〔し、東新の親会社である古河電気工業のサッカー部に入部。この当時の古河は経営状態が悪く、長年新人選手の獲得を控えていた事もあって子会社へ入社させるという苦肉の策であった〔。 古河では加入早々からセンターフォワードに定着。スピードを生かしたドリブル突破と身体能力を生かしたヘディングで得点を重ねた。同年12月、タイのバンコクで行われた第5回アジア競技大会で日本代表デビューを果たし、3位決定戦のシンガポール戦で代表初得点を決めた〔。 1967年、2年目の20歳の時にリーグ戦で20得点をあげ得点王に輝く。なお、この記録は日本サッカーリーグ歴代最年少であった。日本代表にも引き続き招集されメキシコ五輪代表候補に名を連ねていたが、最終メンバーからは上久雄と共に落選した。 1972年、試合中に右膝半月板を損傷。症状が悪化したため手術を受けるも結果も思わしくなく医師から完全復活は難しいとの判断が下された。右膝の怪我の影響により、それまでの身体能力を生かしたプレーが影を潜めるようになると、引退後の生活も考えるようになる〔『週刊サッカーマガジン』2008年11月25日号〕。 1974年、古河電工を退部して東京農業大学に進学。一方で同大学のサッカー部へ入部して選手兼コーチを務め選手生活を続けることになった。同サッカー部では2年目の1975年には関東大学リーグ1部昇格へと導き、1977年の第57回天皇杯全日本サッカー選手権大会において、準々決勝で古巣である古河電工に2-3で敗れたものの、日本リーグ1部のトヨタ自工や新日鐵といった格上を下して学生唯一のベスト8に食い込んだ。 1979年、大学を卒業後は川淵三郎の勧め〔もあって東芝に入社し同社のサッカー部へ入部。この時期に結婚をして妻の姓の高橋へ改姓した。この年に日本リーグ2部優勝を果たすものの、1部昇格は逃した。その後35歳まで現役を続け1982年に現役を引退。引退後はサッカーから離れ社業に専念した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高橋武夫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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