|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 高 : [たか] 【名詞】 1. quantity 2. amount 3. volume 4. number 5. amount of money ・ 橋 : [はし, きょう] 【名詞】 1. bridge ・ 伍 : [ご] 1. (n,vs) five (used in legal documents) 2. five-man squad 3. file 4. line 5. rank with 6. associate with
高橋 清伍(たかはし せいご、1908年(明治41年)2月21日‐1945年(昭和20年)2月7日)は、日本陸軍の軍人。陸士41期。最終階級は少佐、死後中佐。旧姓:森山。 ==経歴== 新潟県出身〔菊池(1995)、p.204〕。1929年(昭和4年)7月17日、陸軍士官学校(41期)を卒業、歩兵第20連隊附を経て1933年(昭和8年)8月1日より戦車第一連隊の所属となる。この間、高橋家の養子となり、本籍も新潟から石川へと移した。 1937年(昭和12年)8月14日、歩兵大尉として戦車第5大隊所属第2中隊長に就任し、9月上海に上陸、徐州作戦に参加した。漢口攻略戦において戦車で8日間で三五〇キロを踏破、砲35門を鹵獲し〔菊池寛の「西住戦車長伝」では50門とされているが、高橋は自身の著書においてこれを35門と表記している。当時の報道の信憑性から判断した結果、ここでは高橋自身の主張に沿って説明する。〕、感状を合計で3回受けた〔菊池(1995)、p.116〕。1939年(昭和14年)5月、戦車第10連隊の設立に伴い本部付となる。少佐昇任後の1942年(昭和17年)、四平陸軍戦車学校の第九期幹部候補生隊長に就任。その後、戦車第6連隊に転任、指揮班長となる。 昭和20年1月26日、フィリピン・ルソン島に上陸。2月2日、連隊長の井田君平大佐が戦死すると、連隊長代理として指揮を取り、2月6日午後1時、軍命令を受け、全隊にサンホセへの後退を通告。 全車両のナンバープレートはあらかじめ破棄、会話やエンジン音も最小限に留め、発見された場合は応戦よりも迅速な撤退を優先するよう呼びかけた。準備完了は午後10時、出発は翌7日の午前0時とした。準備は順調に進み、部隊は予定時刻通りに国道に沿って撤退を開始。事は成功するかのように思えた。 だが、午前3時ごろ、運悪く米軍第6師団所属の歩兵第20連隊に発見され、至近距離からの速射砲による集中攻撃を受けた。応戦・突破を試みるも空しく、猛攻撃の中死亡した。 3月4日、第二師団長・山下奉文より感状を受け、中佐へと特進。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高橋清伍」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|