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高橋 琢也(たかはし たくや、弘化4年12月17日(1848年1月22日) - 昭和10年(1935年)1月20日)は、日本の官僚。貴族院議員〔。沖縄県知事(第6代)。東京医科大学創立者〔「今こそ伝えたい高橋琢也氏の創立精神」--東京医科大学前理事長・伊東洋氏が書籍「医学校をつくった男 高橋琢也の生涯」を出版 、マイライフ手帳@ニュース、2011年06月23日〕。広島県平民〔『人事興信録. 7版』(大正14年)タ九三〕。 ==経歴== 安芸国牛田村(のち広島市東区牛田)生まれ。高橋久次の長男〔『人事興信録』(昭和6年)タ一三五〕。幼くして父母を失い祖母に育てられる。 御典医になるべく藩医の弟子になったり、大阪に出て薬屋に奉公。また按摩をする等、苦学力学して洋学を修める。1870年以来、大学南校(東京大学の前身)に勤め、その後同校教授となる。また陸軍兵学寮・参謀本部等に勤め、主に兵事関係の外国文献の翻訳にあたる。1885年、農商務省に転じ、東京農林学校教授、林務官等を経て1895年山林局長に就任、森林法の制定に精魂を傾ける。農商務大臣が榎本武揚から大隈重信に代わると大隈と折り合わず、1897年免官となる。 その後、北炭、三井物産、北海道庁の顧問を務めた後、第1次山本内閣の内務大臣・原敬に認められ1913年、沖縄県知事に抜擢された。当時すでに67歳に達しており、中央紙はこの人事を酷評した。しかしながら老体にも似ず元気。個性が強く豪腹で多弁、多策で、余暇をみては県内各地を巡回し県民の啓発に努めた。また県の振興策を政府に陳情する等、機会あるごとに要路に向かって沖縄紹介に骨を折った。このため、この頃から県政に政党色が反映されるようになった。1914年、第2次大隈内閣が成立すると、大隈に辞表を提出し休職。 1918年、長く官界にあった高橋が全私財を投じ、全国を奔走して佐藤進、森鴎外、原敬、犬養毅、高橋是清、大隈重信、渋沢栄一など医学界、政界、財界の有志から多大な支援を受け、東京医学専門学校(現・東京医科大学)が設立された〔東京医科大学 〕。 1919年、原内閣で貴族院議員に勅選。 1935年1月20日死去。86歳。医学専門学校に於いて盛大な校葬が営まれた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高橋琢也」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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