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高橋竹山 : ミニ英和和英辞書
高橋竹山[たかはし ちくざん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [たか]
 【名詞】 1. quantity 2. amount 3. volume 4. number 5. amount of money 
: [はし, きょう]
 【名詞】 1. bridge 
: [たけ]
 【名詞】 1. bamboo 2. middle (of a three-tier ranking system) 
: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 

高橋竹山 : ウィキペディア日本語版
高橋竹山[たかはし ちくざん]

高橋 竹山(たかはし ちくざん、1910年(明治43年)6月18日 - 1998年(平成10年)2月5日)は津軽三味線の名人。本名高橋定蔵。一地方の芸であった津軽三味線を全国に広めた第一人者である。演歌歌手北島三郎が歌った『風雪ながれ旅』のモデル。
== 人物・生涯 ==
青森県東津軽郡中平内村(現在の平内町小湊生まれ。
3歳の時に麻疹をこじらせて半失明する。その後近所のボサマ(盲目の門付芸人)であった戸田重次郎から三味線と唄を習い、17歳頃から東北北部・北海道を門付けしたという。
1933年(昭和8年)3月2日に三味線引きの仕事で三陸海岸にある玉川の旅館に宿泊中、夜半過ぎに強い地震に遭った。これが昭和三陸地震と呼ばれる地震で宿泊していた宿は津波に襲われて全壊。高橋は地震が収まったあと宿から避難し津波の来る直前に命からがら宿の裏にある山へ避難することができた。
1938年(昭和13年)イタコをしていたナヨと結婚
太平洋戦争の激化で三味線では生活が支えることが難しくなり、1944年(昭和19年)、鍼灸師マッサージ師の資格取得のため県立八戸盲唖学校に入学。一時芸の世界から身を引くが、1950年(昭和25年)から津軽民謡の神様とも呼ばれた成田雲竹の伴奏者として各地を興行。その際に雲竹より『竹山』の芸名を受ける。1954年(昭和29年)から雲竹とともにラジオ青森の民謡番組に出演した。
成田雲竹は高橋竹山に対して、伴奏のみならず他の津軽民謡に三味線伴奏を付けるよう依頼、以後雲竹の作詞作曲した『りんご節』など、雲竹・竹山のコンビで多くの津軽民謡を発掘・制作し発表した。
1963年(昭和38年)キングレコードより史上初の津軽三味線独奏LPレコード『源流・高橋竹山の世界~津軽三味線』を発売。これによって竹山の名は津軽三味線奏者としての名声を得る。
1964年(昭和39年)雲竹の引退・隠居により雲竹・竹山のコンビを解消。
1971年(昭和46年)青森放送で竹山を取り上げたドキュメンタリー『寒撥』が放送。一般にその名を知られるきっかけとなる。番組は同年度の文化庁芸術祭で優秀賞に選出された〔文化庁芸術祭賞受賞一覧:昭和41年度(第21回)〜昭和50年度(第30回) 〕。
1973年(昭和48年)小劇場渋谷ジァン・ジァンに初出演。その後も定期的に開催したライブで多くの若者の心を捉え津軽三味線ブームのさきがけとなった。
1975年(昭和50年)自伝『津軽三味線ひとり旅』を出版。
1977年(昭和52年)新藤兼人脚本・監督により映画竹山ひとり旅が製作され、モスクワ国際映画祭に日本代表作品として出品される。竹山役は林隆三が演じた。
1986年(昭和61年)にアメリカ公演をし、これが世界に津軽三味線の名を知らしめるもととなった。ニューヨークワシントンD.C.ボルチモアサンフランシスコロサンゼルスホノルルなど7都市で10回の演奏会。厳しい論評で知られるニューヨーク・タイムズ「まるで魂の探知器でもあるかのように、聴衆の心の共鳴音を手繰り寄せてしまう。名匠と呼ばずして何であろう」と最高の賛辞を贈った。
1993年(平成5年)妻ナヨ死去。
1998年(平成10年)2月5日、喉頭癌により平内町立中央病院にて死去。享年87。戒名「風雪院調絃竹山居士」。
晩年は衰えを自覚しながらも現役を退かなかったが、内弟子として師事し最後まで演奏活動を共にした竹与に二代目高橋竹山の名を譲った。他にも弟子はいたが、竹与だけが教授活動を一切せず演奏活動だけで生活していたことを認め、その行く先を心配してのことであった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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