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高橋 至時(たかはし よしとき、明和元年11月30日(1764年12月22日) - 享和4年1月5日(1804年2月15日)は、江戸時代後期の天文学者。字は子春、号は東岡・梅軒。通称作左衛門。子に天文学者で伊能忠敬の没後「大日本沿海輿地全図」を完成させた高橋景保、天保改暦を主導した渋川景佑がいる。 == 生涯 == === 麻田剛立に師事 === 大阪定番同心の子として生まれ、安永7年(1778年)15歳の時、父の後をついで大阪定番同心となった〔吉田(2005) p.291〕。天明4年(1784年)、同心永田元左衛門清賢の娘である志勉(しめ)と結婚した。翌年に景保、2年後に景佑が生まれ、その後にさらに3人の子をもうけた。 幼いころから算学に興味をもっていた至時は、天明6年(1786年)ごろ、松岡能一に算学を学んだ〔ただし渡辺敏夫は、至時が松岡に学んだというのは疑わしいとしている(渡辺(1986) p.209)。〕〔上原(1977) p.129〕。そして暦学を学ぶため、天明7年(1787年)麻田剛立(あさだごうりゅう)に師事した。 当時の日本の暦は宝暦暦を用いていたが、この暦は精度が悪く、宝暦13年(1763年)に起きた日食の予報を外してしまっていた〔日本学士院日本科学史刊行会編(1979) p.129〕。一方でこの日食は在野の複数の天文家によって事前に予測されていて、その中の一人が麻田剛立であった。剛立はその後、中国や西洋の天文学を読み解いたうえで、さらに自らの理論も加味した独自の暦「時中暦(時中法)」を作成し、高い精度を誇っていたため、当時の人々の間で評判が高かった〔大谷(1917) pp.670-671〕。至時はこの剛立のもとで、同じころに入門した間重富とともに天文学・暦学を学んだ。その熱心さは、至時の家が火事で全焼した翌日にも、焼け跡で剛立や重富と暦学の議論を行うほどであった〔中村(2008) p.89〕。 当時至時らが歴学を学ぶ際に参考にしていたのは、授時暦や貞享暦などの日本・中国の暦法、および『暦算全書』、『天経或問』といった書物だった〔。そしてその中でも重要視されたのが、『暦象考成上下編』であった。 『暦象考成上下編』は、何国宗・梅殻成らによって編纂された、西洋の天文学をまとめた書で、天体の運動についてはティコ・ブラーエによる円軌道を基軸としている。ところがその後、間重富は新たに『暦象考成後編』を入手した。本書は書名こそ同じ『暦象考成』であるが、著者も内容も異なるため、実質的には「上下編」とは別の書である〔吉田(2005) p.292〕。『暦象考成後編』では太陽と月の運動を、円軌道ではなく、ヨハネス・ケプラーの唱えた楕円軌道で説明していた。この理論は当時の日本人にとっては革新的であり、かつ難解でもあったが、至時は剛立・重富と共に取り組んだ研究の結果、この理論を習得することができた〔。こうして至時らの天文学の知識は当時の日本では他を抜きんでたものになってゆき、その評判は広く知られるようになっていった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高橋至時」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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