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高橋良一 : ミニ英和和英辞書
高橋良一[たかはし まこと]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [たか]
 【名詞】 1. quantity 2. amount 3. volume 4. number 5. amount of money 
: [はし, きょう]
 【名詞】 1. bridge 
: [りょう]
 【名詞】 1. good 
: [いち]
  1. (num) one 

高橋良一 ( リダイレクト:くり万太郎 ) : ウィキペディア日本語版
くり万太郎[くり まんたろう]

くり 万太郎(くり まんたろう、1950年3月6日 - )は、ニッポン放送アナウンサー(嘱託職)、ニュースデスク、ディレクターである。神奈川県出身。通称は「くりまん」。本名:高橋 良一(たかはし りょういち)。
== 経歴 ==
川崎市立日吉中学校〔月刊ラジオマガジンモーターマガジン社)1981年6月号 p.42-45〕、神奈川県立多摩高等学校を経て〔、早稲田大学第一文学部演劇専攻卒業〔。
小学生時代から、声の良さで一際目立つ存在だったという〔。中学生時代の部活はブラスバンド部、卓球部を経て放送部〔。高校生時代は放送部一筋だった。高校生時代に、NHK放送コンクール神奈川県大会で入賞〔。早大進学を決めたのはジャーナリズムの分野に早大出身の人物が多かったことが理由の一つとのことで〔、大学ではアナウンス研究会に所属し、吉田照美は同会の1年後輩〔。
アナウンサーの就職試験では文化放送は最終の3人までに残り、北海道放送では重役面接までに残るなどしたが、いずれも本採用にならず(ニッポン放送は1973年度の入社試験は無かった)、1年就職浪人を決めてこの間はスポーツニッポン社でアルバイト〔。翌年1974年に再挑戦した時には1年後輩の吉田照美とアナウンサー試験に一緒に行くことも多くなり、一緒に静岡放送の試験に行った他、文化放送では前年に続いて最終試験まで残った〔。同年、ニッポン放送に入社。アナウンサーとして活躍。同期入社には元アナウンスルーム長の那須恵理子がいる。
1975年から1978年にかけて『オールナイトニッポン』でパーソナリティーを担当していた〔1975年10月から1976年9月まで…火曜2部(当時は本名の高橋良一名義で担当)
1976年10月から1977年9月まで…火曜1部(火曜1部からリスナー公募で決定したくり万太郎名義で担当)
1977年10月から1978年3月まで…月曜1部〕。本名でオールナイトニッポン火曜2部パーソナリティを務めていた時は、本名を英語に直した名前「ハイブリッジ・グッドマン」を名乗っていたこともあった〔。
1977年5月9日14:00から、5月11日26:00(5月12日午前2時)まで、高嶋秀武(ヒゲ武)と『ヒゲ武・くり万60時間マラソンDJ』を放送。1971年に行われた糸居五郎の『50時間マラソンジョッキー』を更に10時間上回る記録となった。
1990年4月、管理部に異動。1990年代後半に制作部に異動してからはディレクタープロデューサーとして数々の番組にかかわる一方、2001年4月から2003年9月までBSデジタルラジオ放送LFX488の番組『ブロードバンド!ニッポン』でパーソナリティを担当していた。
あっぱれ!日本一』(テレビ東京系)という番組に、この回のゲストの関係者として登場したことがある。この時やニュース読みの際は本名を名乗っていた。
2009年3月30日からアナウンサールームに復帰。『くり万太郎のオールナイトニッポンR』でパーソナリティを担当した。
配偶者は、同じくニッポン放送のアナウンサーだった馬場直子である。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「くり万太郎」の詳細全文を読む




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