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高橋 輝彦(たかはし てるひこ、1914年4月29日 - 没年不明(1993年4月1日~2003年3月1日の間)〔〕)は、神奈川県出身の元プロ野球選手。 == 来歴・人物 == 神奈川県立商工実習学校(現:神奈川県立商工高等学校)時代には春1回(1931年)、夏2回(1928年,1931年)甲子園に出場した。その後、専修大学に進学し、遊撃手として活躍。1935年秋季の東都大学リーグ戦では打率.346をマークしている〔「五大学リーグ突撃十勇士」次郎冠者 「36年・野球界一月号」より出典〕。また身長五尺五寸三分、体重十六貫五百匁で趣味は映画鑑賞だったと伝わる〔「五大学リーグ突撃十勇士」次郎冠者 「36年・野球界一月号」より出典〕。 1936年、東京セネタースの結成に参加(そのため、専大を中退)。苅田久徳,中村信一,綿貫惣司と共に「百万ドル内野陣」と呼ばれる鉄壁の守備を形成した。本職は三塁手だったが、内外野どこでも守れるユーティリティプレイヤーぶりを発揮した。打撃面も良く、1936年春夏リーグでは全選手中最多となる18打点(但し、このシーズンに限り最多打点としてのタイトル表彰はなし)を記録。1936年秋季リーグでは打率.275で打率ベストテン入り(8位)をした。また選球眼も優れており、四球の数が三振を上回っていた。しかし1936年シーズン終了後、1度目の応召。1940年復帰したが、1942年に2度目の応召。 戦後はプロ野球に戻らず、1946年からノンプロの豊岡物産(主将に選出)でプレーし、日本球界初の天覧試合にも出場。その後、現役引退。引退後は、アマチュア野球の指導に携わった。まず母校・神奈川県立商工高等学校の監督を務め、1950年夏の甲子園に導いた。当時の教え子に大沢啓二がいる。その後、馬渕建設(ノンプロ)、母校である専修大学の監督を経て、1965年に横浜高等学校の監督に就任。コーチであった渡辺元智を指導し、横浜高校を高校野球の強豪校となる下地を作った。1967年限りで、監督の座を渡辺に譲って退任。渡辺によれば、「高橋輝彦前監督は専修大学野球部の黄金時代を築いた監督で、実に紳士的で野球理論も卓越していた」と高橋の博識・性格を評価している〔〕。 没年日時ははっきりと分かっていないが、専修大学の体育会70周年記念式典で感謝状(体育会長、各部・同好会の部長、監督、OB会長を務め、対象期間中に逝去された方)を送られた記述があり〔〕、それによると、1993年4月1日~2003年3月1日の間に死去した。享年は78~88の間である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高橋輝彦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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