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高橋 進太郎(たかはし しんたろう、1902年12月18日 - 1984年6月5日)は、戦後昭和期の日本の政治家。参議院議員、行政管理庁長官、宮城県知事を歴任した。 == 来歴・人物 == 1902年(明治35年)生まれ、現・白石市出身〔開拓地「北のパラオ」万感の思いで両陛下歓迎へ (河北新報 2015年6月13日)〕。1928年(昭和3年)、東北帝国大学(現・東北大学)法文学部を卒業した。高等文官試験に合格し、1936年(昭和11年)からはパラオ諸島・コロールにあった南洋庁において、拓殖部長として南洋諸島の行政に関わった〔〔(沖縄県教育庁文化財課史料編集班)〕。拓務省企画課長、大東亜省行政課長などを歴任。 南洋諸島では1943年(昭和18年)12月から日本本土への帰還が始まり、海外移住組合連合会がそれを担っていたが、1944年(昭和19年)2月17日・18日のトラック島空襲や3月30日・31日のパラオ大空襲を受けて、同年4月に大東亜省が「財団法人南洋群島共助義会〔1944年(昭和19年)4月に設立された「財団法人南洋群島共助義会」は、1947年(昭和22年)4月に「財団法人共助義会」に改組し、1956年(昭和31年)7月に 「財団法人南洋群島協会」に再改組した。1999年(平成11年)4月に財団法人を取りやめて「南洋群島協会」となり、2005年(平成17年)6月1日の第40回全国南洋会サイパン大会をもって活動を終了した。〕」を設立し、帰還を担当させた〔。高橋は同会の第2代会長に就任〔。1945年(昭和20年)の終戦後は引き揚げが国の事業となり、南洋諸島からは1946年(昭和21年)前半に終了した〔。 1947年(昭和22年)4月、南洋群島共助義会会長を辞任し〔、戦後占領期に実現された公選による初代宮城県知事・千葉三郎の下、副知事(初代)に就任した。 1950年(昭和25年)、自由党公認で第2回参議院議員通常選挙に立候補して初当選。その後、3期にわたって参議院議員を務め、法務政務次官、参議院議院運営委員長を歴任したほか、1960年(昭和35年)に組閣された第1次池田内閣では、行政管理庁長官として入閣した。国会では、引揚者給付金等支給法(1957年制定)の対象に、戦中の南洋諸島からの帰還者が含まれるよう精力的に活動した〔。 1965年(昭和40年)、当時の宮城県知事・三浦義男の急逝に伴う宮城県知事選挙に立候補して当選、宮城県知事を1期務めた。在任中には、三浦知事時代に指定された新産業都市「仙台湾地区」に着手したほか、三菱地所による「泉パークタウン」、「鬼首リゾート」などの大規模開発を支援した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高橋進太郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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