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高 永喜(こう えいき)は、李氏朝鮮末期から大韓帝国期の政治家。現在の大韓民国では庚戌国賊、丁未七賊及び親日派の一人とされている。 == 生涯 == 同治5年(1866年)に副司勇になり、光緒2年(1876年)の日朝修好条規(江華島条約)締結後は、随行員の一人として日本の文物制度を見聞し、開化派に属することとなる。帰国後、日本の発展した姿を知って、元山港が開港されて通商港になると、事務官処理になり大きな功績を立てた。 光緒7年(1881年)には紳士遊覧団の随行員として再度日本へ渡った。 翌光緒8年(1882年)には日本公使花房義質の差備訳官になって、その後も重用され、仁川租界画定の事務を担当し、参議交渉通商事務・参議内務府事なども務めた。 光緒10年(1884年)の甲申政変以降は、杆城・朔寧・高陽などの郡守職をたらい回しにされるという憂き目に遭い、任期満了後に辞職して、一時は閑居の身となったが、翌光緒11年(1885年)以後は機器局幇弁を務めた。 光緒20年(1894年)の甲午改革の際には、内部参議・学務衙門参議・農商衙門協弁を務めた。 開国504年(1895年)には駐日特命全権公使となり、建陽元年(1896年)には農商工部協弁・外部協弁となり、独立協会の発起人として参加した。光武3年(1899年)には漢城府判尹、光武7年(1903年)には再び駐日特命全権公使となり、度支部協弁・中枢院賛議などを経て、光武8年(1904年)には黄海道観察使、光武9年(1905年)には帝室会計審査局長・経理院卿となった。 光武11年(1907年)に成立した李完用内閣では度支部大臣となり、伊藤博文がハーグ密使事件を理由に高宗の譲位を強要した際は、積極的な反対活動を行なった。 その後は法部大臣を経て、隆熙3年(1909年)には内部大臣臨時署理・度支部大臣になり、第三次日韓協約及び日韓併合条約に署名し、1910年(明治43年)10月16日には朝鮮貴族として子爵に列せられ、朝鮮総督府中枢院の顧問を務めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高永喜」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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