|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 高 : [たか] 【名詞】 1. quantity 2. amount 3. volume 4. number 5. amount of money ・ 沢 : [さわ] 【名詞】 1. (1) swamp 2. marsh 3. (2) mountain stream 4. valley 5. dale
高沢 秀昭(たかざわ ひであき、1958年9月10日 - )は、北海道沙流郡門別町(現:日高町)出身の元プロ野球選手(内野手・外野手)、野球指導者。 == 経歴 == 庫富小学校、門別中学を経て苫小牧工高に進む〔苫小牧市 高沢秀昭 プロフィール(pdf) 〕。高校では2年秋、3年春と夏の北海道大会でいずれもベスト4に進出したが、全国大会出場はならなかった〔。高校卒業後は王子製紙苫小牧に進む。スカウトの三宅宅三に才能を評価され〔毎日新聞、1996年4月8日付夕刊、P.3〕、1979年のドラフト2位でロッテオリオンズに入団した。 プロ3年目までは遊撃手だったが、故障のため外野手に転向した〔。は7月21日に2番・中堅手としてスタメンで起用され、残りのシーズンは全試合に外野手として先発出場した〔。 は開幕から59試合で無安打だったのが12試合だけと好調な打撃を続けた〔。5月30日にはパ・リーグでは初となる1試合4二塁打も記録している。しかし、8月11日の円山球場での対西武ライオンズ戦でスティーブ・オンティベロスの打球を好捕した際に外野フェンス(コンクリート製)の角に激突し、右膝蓋骨を粉砕骨折して2ヶ月半にわたって入院した〔朝日新聞、1985年1月18日付朝刊、P.17〕〔沢柳政義『野球場大事典』大空社、1990年、p.293。この事故がきっかけとなり、翌年円山球場にはラバーフェンスが設置された。〕。この試合が同年最後の出場となったが、シーズンでは打率.317の成績を残し、初のベストナインとゴールデングラブ賞を受賞している。 は9月29日の対阪急戦で佐藤義則から死球を受け、左手尺骨を骨折して全治1ヶ月となっている〔読売新聞、1986年10月1日付朝刊、P.16〕。はオープン戦で三塁にスライディングした際に左手薬指の靭帯を痛めた〔読売新聞、1987年3月26日付朝刊、P.17〕が、開幕までに復帰している〔朝日新聞、1987年7月26日付朝刊、P.27〕。シーズン初の1番打者で起用された5月17日の対日本ハム戦では、4安打2本塁打4打点の活躍を見せた〔朝日新聞、1987年5月18日付朝刊、P.19〕。オールスターゲーム第1戦では小松辰雄からの3ランホームランなどで4打点を挙げ、MVPを受賞した〔。同年後半は4番打者も務め、チーム最高の打率.292をマークしている。同年は3年ぶりにゴールデングラブ賞を受賞した。 は4月は打率2割台前半と低迷したが、5月5日に猛打賞で3割を超えるとその後は好調を持続〔。オールスターゲーム第3戦で史上4人目の先頭打者本塁打を放ち、優秀選手賞を受賞した〔読売新聞、1988年7月27日付朝刊、P.19〕。9月1日の対南海戦からは不振のビル・マドロックに代わって4番を任された〔「FACE’88 『地味な4番打者』が狙う『派手なタイトル』 」『週刊ベースボール』、1988年10月10日号、P.129〕。 また、シーズン終盤には松永浩美と首位打者を激しく争い、近鉄との10.19の試合前の時点で6試合を残して打率.3277となった。一方の松永はロッテとの3試合を残して.3234で、この日のダブルヘッダーでは7打数0安打以下ならば松永に逆転されるという状況で、監督の有藤通世からは「残り4試合あるが、この日でうちは終わりのつもりだから自分で首位打者を取れ〔「最終戦 10.19 川崎球場~優勝を賭けた近鉄の死闘7時間33分」文藝春秋、有藤のインタビュー(ページ不明)〕」と言われてスタメンで出場した。第1試合では3打数0安打で打率を.3257まで下げ、4打席目には代打を送られている。第2試合では2打席目に安打を放って首位打者を事実上手中にした。さらに8回裏の4打席目に近鉄の優勝を打ち砕く同点ホームランを阿波野秀幸から放っている。これで打率を.3271とし、10回裏の5打席目では代打を送られている。 その後は高沢は打席に立たず、一方の松永は10月22、23日の対ロッテ3連戦に出場し、初戦の1・2打席目にヒットを放って打率を.3263まで上げた。このため、ロッテ投手陣はこの試合の第3打席以降、日本新の11打席連続四球と勝負を避けた〔読売新聞、1988年10月24日付朝刊、P>19〕。この結果、初の首位打者のタイトルを獲得し、最多安打も記録した。11月の日米野球では1番打者としてスタメンで出場した第2戦で、9回にダグ・ジョーンズから同点タイムリーを放ちチームの引き分けにつながった〔朝日新聞、1988年11月7日付朝刊、P.25〕。オフには1,500万円増の年俸4,500万円+タイトル料300万円(推定)で契約を更改した〔読売新聞、1988年12月6日付朝刊、P.19〕。 はキャンプ前に右ふくらはぎ、キャンプ中盤に右肩、開幕直前には右太ももを痛めるなど、故障が相次いだ〔「ザ・焦点 スロースターターの気になる'89ダッシュ エッ?首位打者高沢秀昭が長距離砲に変身中!?」『週刊ベースボール』、1989年5月22日号、P.61 〕。さらに7月23日の対近鉄戦で帰塁した際に右足裏側を痛め〔読売新聞、1989年7月24日付朝刊、P.10〕、8月3日からスタメンを外れ、9月中旬に復帰後は指名打者として出場した。この怪我は捻挫と診断されていたが、オフに手術したところ剥離骨折だったことが判明した〔「ほっとHotインタビュー 『ベッドの上のボクを高く評価してくれた広島に恩返しをしたい』」『週刊ベースボール』、1990年1月1日号、P.108〕。入院中の11月13日に、高橋慶彦・白武佳久・杉本征使との大型トレードで水上善雄とともに広島東洋カープへ移籍する事が広島側によって発表された〔読売新聞、1989年11月16日付朝刊、P.19〕。高沢と水上へ連絡する前だったためロッテ側が態度を硬化させたが、その後の調整によりトレードが成立している〔。 監督の山本浩二からはクリーンアップとして期待され〔『週刊ベースボール』、1990年1月1日号、P.106〕、は開幕から3番・中堅手として起用されたが、故障の影響などから成績は低迷し長嶋清幸と併用されるようになった。オフには250万円減の年俸4,250万円(推定)で契約を更改している〔毎日新聞、1991年1月21日付夕刊、P.9〕。は高卒2年目の前田智徳が急成長して外野手のレギュラーに定着した事もあり、守備固めや代打となっていた〔スポニチ 日めくりプロ野球 【5月28日】1991年 異例 1年で出戻り 高沢秀昭 シーズン中に古巣復帰 〕。このため、デーブ・ヘンゲルが不振で外野手を必要としていたロッテへ半ば戦力外の金銭トレードという形で復帰した〔。社長代行に就任した重光昭夫や、監督の金田正一から獲得の希望があったという〔。 ロッテでも故障から本来のプレーを取り戻すことができず、本拠地を千葉マリンスタジアムに移転した、10月16日に翌年のコーチ就任を打診され、これを受諾して現役引退した〔毎日新聞、1992年10月25日付朝刊、P.21〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高沢秀昭」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|