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高田 博厚(たかた ひろあつ、1900年(明治33年)8月19日 - 1987年(昭和62年)6月17日))は、日本の彫刻家、文筆家。長くパリに住み、幅広い交友関係を持った。 娘の田村和子は詩人田村隆一の元夫人。 ==経歴== 石川県鹿島郡矢田郷村(現七尾市岩屋町)に誕生。父安之助と母敏子の間の三男。 1903年(明治36年)、父の弁護士開業で福井市に移り、1907年、同市順化小学校入学。1910年、父没。1913年、県立福井中学(現福井県立藤島高等学校)へ進み、美術・文学・哲学に熱中した。 1918年(大正7年)(18歳)、中学を卒業して東京へ移り、年長の高村光太郎、岸田劉生、岩田豊雄、中川一政、尾崎喜八、高橋元吉、片山敏彦、岩波茂雄らをつぎつぎに知る。1919年、東京外国語学校イタリア語科に入学、1921年落第、退学。このころ、制作を絵画から彫刻に転じた。1921年、沢田庚子生と結婚。 1922年(22歳)、コンディヴィの『ミケランジェロ伝』の翻訳を、岩波書店より初出版。1925年、山羊を飼いその乳の販売で自活する共産村を、仲間と下高井戸に開き、3年後に解散した。 1928年(昭和3年)、当時非合法の共産党員をかくまい、警察に留置された。このころ、武者小路実篤、草野心平、谷川徹三、古谷綱武、中原中也、小林秀雄、大岡昇平、中野重治、梅原龍三郎らをも知る。 1931年(31歳)、妻と4人の子を残して渡仏。帰国を控えた片山敏彦に帯同され、ロダン、マイヨール、ブールデルらの作品を詳しく見た。かねてから文通したロマン・ロランに招かれ、滞在中のガンジーをスケッチした。 以降27年近く、おもにパリに暮らし、シニャック、アラン、ヴィルドラック、デュアメル、ジュール・ロマン、ルオー、ジャン・コクトーらと付き合い、その塑像を制作した。かたわら、多くの記事を日本へ送り、生活の助けにした。妻に離別された。 1937年、在欧日本人向けに、謄写版刷りの日刊『日仏通信』を始めた。1938年『パリ日本美術家協会』を設立した。ドイツに占領された1940年、毎日新聞の特派員になった。 1944年(44歳)、パリ解放の直前、駐独大使大島浩の命令で、在仏日本人とともにベルリンへ移され、1945年のドイツ降伏後ソヴィエト軍に保護された。単身パリを目指し、1年半の収容所暮らしを経て、1946年暮に戻った。 1948年から、カンヌ国際映画祭日本代表を10年続けた。1949年、読売新聞嘱託となった。1950年、故国の母、没。 1957年(昭和32年)(57歳)秋、帰国し、東京に住む。以後、新制作協会会員、日本美術家連盟委員、日本ペンクラブ理事、東京芸術大学講師などを勤めた。 1966年(66歳)、鎌倉市稲村ヶ崎に移った。大野常と再婚した。 1967年と1970年、パリを訪れた。 1987年(昭和62年)6月17日、満87歳を目前に没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高田博厚」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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