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高田 慎蔵(たかた しんぞう、嘉永5年2月2日〈1852年2月21日〉 - 大正10年〈1921年〉12月26日)は、明治大正期の機械貿易商。 == 生涯 == 高田商会創業者。旧幕府佐渡奉行支配地役人組頭天野孫三郎(三男)の子として佐渡国相川(現新潟県佐渡市)に生まれる。父の同僚高田六郎の養子長男。14歳にして慶応元年(1865年)佐渡奉行所に出仕見習いから、公事方秘書役。夷港運上所に勤め外務下調兼通弁見習となり英語を学んだ。明治3年(1870年)上京、築地居留地にあったドイツ商館アーレンス商会、ベア商会に通弁兼事務官として勤務したのち、明治13年(1880年)、ドイツ人武器商人のマルチン・ミカエル・ベア(Martin Michael Behr)の廃業の後を継いで社長となった。明治20年(1887年)欧米諸国を巡回し翌21年(1888年)帰国して高田商会を設立。事業を拡大し、ニューヨーク・ロンドンに支店を設ける。明治29年(1896年)再び欧米を巡遊。明治32年(1899年)にはアメリカの電気機械メーカー、ウエスチングハウス社の代理店になるなど、日清・日露の両戦争では、海軍省御用となり軍需品を納め豪商となった。同商会は有力機械輸入商社に成長し、明治41年(1908年)合資会社(資本金100万円)に改組。慎蔵は大博覧会評議員・東洋拓殖設立委員となる。大正8年(1919年)引退し婿養子釜吉(釜蔵)(田中平八の3男)が経営した。慎蔵死後の大正14年(1925年)に同商会は経営破綻した。 高野山宝物館設立発起人の一人。東京都文京区本郷湯島三組町の高田慎蔵邸・高田商会本店(麹町)・別邸(赤坂表町)は、明治33年(1900年)ジョサイア・コンドルが建てた。妻はたみ子、娘は雪子。ミカエル・ベアと荒井ロクのあいだに生まれた子照子をベア帰国時に養女にした。照子は原田豊吉に嫁ぐ。マルチタレントの高田万由子の高祖父にあたる。勲三等。墓は谷中霊園。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高田慎蔵」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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