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高田 敬輔(たかだ けいほ、延宝2年(1674年) - 宝暦5年12月4日(1756年1月5日))は、江戸時代の絵師。本名は徳左衛門隆久で敬輔は号。敬甫と書かれることもある。別号に眉間毫翁、竹隠斎、梅桃老人。清和源氏満政流尾張源氏高田氏族。高祖母が戦国武将浅井長政の一族である木村三郎左衛門の娘であり、このことから、京狩野初代狩野山楽(本姓木村)の一族である可能性も指摘されている。なお、高田家は、織豊期には織田信長の家臣だったが、本能寺の変後は、郷士として安土城跡にほど近い清水鼻(しみずばな、現在の滋賀県東近江市五個荘清水鼻町)に住み、その後日野(現在の滋賀県蒲生郡日野町)に移った。官位は正八位上豊前大目、絵師としての位は法眼。長男の正輔(号三敬)も町絵師で法眼、華道池坊三敬風の創始者。 ==経歴== 延宝2年(1674年)、近江日野杉野神町に生まれる。初め日野椀販売、後に製薬を家業としたが、本人は絵画を能くし、京狩野四代目狩野永敬に師事。後に、画僧・明誉古礀[めいよこかん](ヘンは石、ツクリは間の日が月になったもの)に雪舟の画法を学ぶ。狩野永敬の引き回しで仁和寺法親王の御所(御室御所)に出入りし、従八位上豊前大目の官位と藤原姓を賜る。これ以降、薬業では「高田豊前」、画業では「藤原敬輔」と称した。また仁和寺法親王から、享保20年(1735年)62歳で法橋、69歳で法眼に推免され、以後「高田法眼」と称した。晩年、一時期江戸神田に滞在し、8代将軍徳川吉宗にも拝謁して絵を献上、褒美として下賜されたと言われる享保雛が、現在も高田徳左衛門家に遺る。江戸本所羅漢寺において、見物人がひしめくなか短時間で巨大な涅槃図を描き、江戸中の評判になる。その後、故郷である近江日野に隠棲し、宝暦5年12月4日(1756年1月5日)82歳で没。亡くなる直前まで創作を続けた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高田敬輔」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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