|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 高 : [たか] 【名詞】 1. quantity 2. amount 3. volume 4. number 5. amount of money ・ 高知県 : [こうちけん] (n) Kouchi (Kochi) prefecture (Shikoku) ・ 県 : [けん] 【名詞】 1. prefecture ・ 文 : [ぶん] 【名詞】 1. sentence ・ 文学 : [ぶんがく] 【名詞】 1. literature ・ 文学史 : [ぶんがくし] 【名詞】 1. literary history 2. history of literature ・ 学 : [がく] 【名詞】 1. learning 2. scholarship 3. erudition 4. knowledge
高知県の文学史(こうちけんのぶんがくし)では、高知県における文学の歴史、すなわち高知の人々、あるいは高知を訪れた人々の手になる文学作品を通史的に解説する。 == 上古 - 中世前期 == 上代より鎌倉時代に至る間、文献にあらわれる高知の文学はきわめて少ない。そしてその希少な作品も、多くは高知の外から訪れた人々によってつくられたものが記録にとどめられたものであって、高知の人々がつくったものではない。鎌倉時代以前の高知の文学については、その全貌をうかがいうる資料が伝わらないため、詳細は不明としか言いようがない。 奈良時代の文人で高知を訪れた人としては石上乙麻呂(? - 750年)を挙げることができる。乙麻呂は藤原宇合の妻久米連若売と姦通したかどをもって、天平11年(739年)土佐に流された。『万葉集』巻六には「石上乙麻呂卿の土佐の国に配(はなた)えし時の歌」(長歌、反歌各1首)が見え、『懐風藻』には土佐で詠じた漢詩4首を掲げる。このほか、土佐にあったときの詩をまとめた『銜悲藻』2巻があったと伝えるが、湮滅して今に伝わらない。 奈良時代の終わりごろ、空海(弘法大師)もまた高知を訪れ、室戸岬において修行を重ねたことが、その著『三教指帰』に「阿国大瀧岳にのぼりよぢ土州室戸崎に勤念す」と見える。延暦 12年(793年)、20歳のときのことである。真偽不詳ながら、このとき空海が詠んだ和歌「法性の室戸といえど我が住めば有為の浪風よせぬ日ぞなき」(詞書「土佐国室戸といふ所にて」)が『新勅撰和歌集』巻十に収められている。また、後代の御遺告、大師伝などでは、このとき空海は口の中に明星が飛びこむという神秘体験を経験したとされる。 平安時代には、紀貫之(866年? - 945年?)が土佐国司として赴任し(930年)、『土佐日記』(935年ごろ)を著した。同書には、高知から帰途につく貫之や家族の和歌を多く収めるほか、池(現高知市)に住む「よき人の男につきて下りて住みける」(身分のある女房で、男の赴任にともなって高知に下り、住みついている人)が詠み送った「浅茅生の野辺にしあれば水もなき池に摘みつる若菜なりけり」という歌が見える(1月7日条)。この歌の作者は高知に生まれた人ではないが、この地に長らく住まいし、「水もなき池」など高知の地名をうまく読みこんでいる点において、郷土文学のさきがけと言える。このほか、『土佐日記』には船頭たちの歌う歌謡も記録されており、これも当時の高知でつくられたものである可能性がある。また、同書中にあらわれる数多くの地名は、後代、高知の国学者によってくわしく考証が行われ、文芸にも大きな影響を与えた。 鎌倉時代には承久の乱によって土御門上皇(1442年 - 1500年)が土佐に配流された。上皇は父後鳥羽院の風を受けついで和歌をよくし、藤原定家や藤原家隆ら新古今歌人と雅交を結んだことで知られる。家集『土御門院御集』はほぼ年次順の配列となっているが、その後半にはあきらかに土佐在住のあいだに詠まれた作品が見られ、「散りつもる紅葉に橋はうづもれて跡絶えはつる秋の故郷」(『続後撰和歌集』)のように勅撰集も含まれる。また、正和5年(1316年)には、京極派の指導者であった歌人京極為兼が土佐に流されているが、土佐在住中の文事については記録が残っていない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高知県の文学史」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|