|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 高 : [たか] 【名詞】 1. quantity 2. amount 3. volume 4. number 5. amount of money
高群 逸枝(たかむれ いつえ、本名:イツエ、1894年(明治27年)1月18日 - 1964年(昭和39年)6月7日)は、日本の詩人・民俗学者・日本の「女性史学」の創設者である。 熊本県下益城郡豊川村南豊崎(現宇城市)に、小学校校長であった高群勝太郎(嶇泉)の長女として誕生。若い頃より詩人として活躍し、九州新聞などで短歌や詩を発表する。のち、東京にその活躍場所を求めて移転する。アナーキズムと出会って女性史研究を志し、平塚らいてうと共に女性運動を始める傍ら、女性史研究を進め、『母系制の研究』や『招婿婚の研究』などの業績を残し、女性史研究分野の発展に寄与した。 == 略歴 == * 1894年 熊本県下益城郡豊川村に誕生 * 1909年 熊本県立熊本師範学校女子部入学 * 1910年 師範学校退学 * 1912年 熊本女学校4年に編入 * 1913年 熊本女学校修了。鐘淵紡績に女工として就職 * 1914年 西砥用尋常高等小学校の代用教員に就任。のち、父が校長をしている佐俣小学校へ転属 * 1916年 父と共に払川小学校へ転属。橋本憲三と文通を開始 * 1917年 憲三と面会。教職を辞職し、熊本市の専念寺で新聞記者修行に専念 * 1918年 四国巡礼に出発。九州日日新聞に『娘巡礼記』を連載(105回) * 1919年 九州新聞で『愛の黎明』を、大阪朝日新聞に破調短歌を投稿。憲三と婚約 * 1920年 上京。世田ケ谷村の軽部家に寄宿。母の登代が死去 * 1921年 『新小説』4月号に長篇詩『日月の上に』掲載。熊本県八代郡弥次海岸に転居 * 1922年 再び上京 * 1927年 父の勝太郎が死去 * 1930年 平塚らいてうらと無産婦人芸術連盟を結成、『婦人戦線』を創刊 * 1942年 『日本婦人』に連続寄稿 * 1947年 自宅を「女性史学研究所」と改称 * 1959年 「今昔の歌」を『熊本日日新聞』に連載(100回) * 1962年 熊本県松橋町名誉町民となる * 1964年 癌性腹膜炎のため死去〔服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)17頁〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高群逸枝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|