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高 英傑(こう えいけつ、カオ・インチェ、Ying-Chieh Kuo, 1955年10月24日 - )は、台湾の嘉義県嘉義市出身の元プロ野球選手(投手、外野手)。左投げ左打ち。 == 来歴・人物 == 台湾の東亜高工、台北体専、空軍を経て、李来発と共に1980年に練習生として合作金庫銀行から南海ホークスに入団。 李ともども、台湾球界では幼少時より活躍し、当時左腕投手が欠乏(1980年には高を含め4名しか在籍していなかった)していた南海では貴重な左の速球投手で、主にカーブ、シュート、フォークボール、チェンジアップを武器としていた。打者としても台湾球界では「王貞治二世」の異名をとった強打者であった。日本入り当初は150km/hの速球を投げる左腕と噂されたが、制球力を重視するためにノーワインドアップにフォームを改造するが、持ち味の荒々しさがなくなってしまった。当時は外国人枠が一軍登録2名以内と現在よりも厳しく、なかなか一軍昇格の機会は訪れなかったが、7月に王天上が退団・帰国すると、代わって支配下登録され、早速一軍入りを果たした。 同年は6試合に登板し(うち先発登板は3試合)、3勝1敗の成績を挙げた。なお、その年南海の左腕投手があげたのは合計5勝のみであった。 には1試合に登板したが、シーズン途中で肩を故障し、打者に転向。早速一軍でも30試合に出場し、打率.180ながら日本での唯一の本塁打を記録。は31試合に出場し、打率.243、3打点。はジム・ライトル、李と3人で2枠の外国人枠を争う形となったが、この年9試合で打率.083に終わり、オフに李共々退団し、帰国した。なお、この年ウエスタンリーグの打点王となる。 帰国後は指導者として活躍。ナショナルチームのコーチを務め、郭李建夫を指導し、李が監督を務めたバルセロナオリンピックでの銀メダル獲得に貢献。その後もコーチとして活躍を続け、王建民を育てた。その後は台北市立体育学院の監督を務めた。 5月29日、中華職業棒球大聯盟(CPBL)の中信兄弟エレファンツ最高顧問に就任。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高英傑」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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