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柳妻 麗三郎(やなづま れいざぶろう、1898年3月9日 - 1988年あるいは1989年)は、日本の俳優、芸人、元奇術師、元照明技師である〔キネマ旬報社, p.600.〕〔映画世界社, p.77.〕〔映画世界社, p.101.〕〔''柳妻麗三郎''、''jlogos.com'', エア、2013年6月12日閲覧。〕〔''柳妻麗三郎''、''高見嘉一''、日本映画データベース、2013年6月12日閲覧。〕〔''柳妻麗三郎''、日本映画情報システム、文化庁、2013年6月12日閲覧。〕〔''柳妻麗三郎''、allcinema, 2013年6月12日閲覧。〕〔''高見嘉一''、東宝 映画データベース、2013年6月12日閲覧。〕〔''柳妻麗三郎''、''高見嘉一''、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年6月12日閲覧。〕〔高見, p.92-95.〕。奇術師時代の芸名は松旭斎 天秀(しょうきょくさい てんしゅう)、本名・旧芸名は高見 嘉一(たかみ かいち)〔〔〔〔〔〔〔、一時期、チャーリー 高見(チャーリー たかみ)とも名乗った〔ラクゴロク「しゃべるノッポさんは落語流」高見のっぽ 、朝日新聞、2006年7月10日付、2013年6月12日閲覧。〕。「マキノのチャップリン」と呼ばれ〔岩本, p.131-133.〕、「昭和の鳥人」こと高木新平に軽業を指導したこと、および「ノッポさん」こと高見映の実父としても知られる〔〔映画世界社, p.77.〕。 == 人物・来歴 == 1898年(明治31年)3月9日、熊本県熊本市二本木町(現在の同県同市西区二本木)に生まれる〔〔〔。 高見嘉太郎の長男として生まれ、長じて、地元の芝居小屋「東雲座」で照明係や設備営繕等の技術職を務めた〔くまもと, p.56.〕。やがて、全国を巡業していた松旭斎天一(1853年 - 1912年)と出逢い、これに師事して奇術師に転向、「松旭斎 天秀」の名をもらう〔〔〔〔〔藤山, p.150-151.〕。満16歳になる1914年(大正3年)、京都の日活関西撮影所で、牧野省三が新劇(現代劇)を製作する際にこれに出演、以降、天一一座から離れて、同撮影所で照明技師を務めていた〔〔〔。1920年(大正9年)には、同撮影所の演技学校におり、高木新平はここで高見(柳妻)に師事している〔〔〔〔。 満27歳になった1925年(大正14年)6月、牧野省三が東亜キネマを退社、天授ヶ丘に御室撮影所を建設してマキノ・プロダクションを設立した際にこれに参加する〔〔〔。同年9月11日に公開された『奇傑鬼鹿毛 第二篇』(監督金森萬象)で「浮鮫源三郎秀春」役に抜擢されて出演、本名の「高見 嘉一」でクレジットされた〔〔〔〔。同作のプロモーションでは、主演の武井龍三が「鳥人」、平八郎が「巨人」、高見(柳妻)は「豹人」というフレーズがつけられた〔〔。同年10月30日に公開された『駕屋の先生』(監督沼田紅緑)に出演したときから、芸名を「柳妻 麗三郎」と改める〔〔〔〔。1926年(大正15年)5月5日に公開された『活動狂時代』(監督曾根純三)では、「チャップリンに似た男」役を演じ、子役スター松尾文人とともに「大チャプ小チャプ」と宣伝された〔〔〔〔〔File:Katsudo-kyo jidai 1926.jpg , マキノ・プロダクション、2013年6月12日閲覧。〕。同年11月7日から公開が開始した『照る日くもる日』のシリーズでは、「猿の源次」役を演じて代表作のひとつになり、現代劇、時代劇問わず出演した〔〔〔。高見映によれば、父・高見嘉一(柳妻)は「顔がバタくさく」、「美男子の父」の顔が印刷されているトランプが残っているという〔。 1929年(昭和4年)7月25日、牧野省三が亡くなり、同年9月にマキノ正博を核とした新体制が発表になると、柳妻は、嵐冠三郎、荒木忍、南光明、根岸東一郎、谷崎十郎、阪東三右衛門、市川米十郎、東郷久義、市川幡谷、實川芦雁、桂武男、市川新蔵、津村博、澤田敬之助、河津清三郎、五味國男、川田弘三、小金井勝、秋田伸一、岡村義夫らとともに「俳優部男優」に名を連ねた〔1929年 マキノ・プロダクション御室撮影所所員録 、立命館大学、2013年6月12日閲覧。〕。その後、新体制下のマキノ・プロダクションは財政が悪化し、1931年(昭和6年)4月以降、製作が停止する〔御室撮影所 、立命館大学、2013年6月12日閲覧。〕。同年1月10日に公開された『呑気放亭』(監督根岸東一郎)に出演したのを最後に、柳妻は同社を退社する〔〔〔。 のちに「ノッポさん」として知られる高見映(本名・高見嘉明)が生まれたのは、マキノ退社後の1934年(昭和9年)5月10日で、当時は役者時代から引き続き、京都府京都市右京区太秦の俳優たちが多く住む長屋に暮らし、その一角で電気器具店を営業していたという〔〔。その傍ら、「チャーリー 高見」を名乗り、チャーリー・チャップリンの物まねを映画の幕間に演じる、芸人としての活動も行っていたという〔。1938年(昭和13年)ころには、東京府東京市向島区寺島町(現在の東京都墨田区東向島周辺)に移転、同地で工場に勤務して工場長を務め、第二次世界大戦が深まった1944年(昭和19年)には岐阜県羽島郡笠松町に疎開し、1951年(昭和26年)に東京に戻ったという〔。 東京に戻ってしばらくして、高見(柳妻)は芸能界に復帰し、満54歳であった1953年(昭和28年)1月22日に公開された上原謙・杉葉子の主演作『夫婦』(監督成瀬巳喜男)に出演した記録が残っている〔〔〔。しかしながら、同作以降の出演歴は不明である〔〔〔。 1979年(昭和54年)10月23日に発行された『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社)の柳妻の項目によれば、すでに引退はしていたが、満81歳を迎えるその当時は存命で、東京都三鷹市上連雀に住んでいたようである〔。高見映の回想によれば、正確な没年月日は伏せられているが、『ノッポさんがしゃべった日』の執筆されたころ(1991年5月発行)から数年前に亡くなったという〔高見, p.34.〕。また近年、読売新聞のインタビューで、高見映は自身が54歳の時に亡くなったと発言している。したがって没年は1988年か1989年、満90歳あるいは91歳没となる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「柳妻麗三郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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