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高貞碑(こうていひ)は、中国の南北朝時代、北魏の正光4(523)年6月に建てられた高級貴族の墓碑。六朝時代の北朝で発展した「六朝楷書」を代表する書蹟として知られるほか、同族の高慶・高湛の墓碑「高慶碑」「高湛碑」とともに「徳州三高碑」として知られている。 被葬者・高貞の墓の荒廃とともに土中に埋もれ、長くその存在を知られずにいたが、清の乾隆年間末期(1790年代末)に徳州で出土し、世に現れた。戦後、文化大革命の被害により真っ二つに破壊されたが、その後補修されて山東省徳県の孔子廟に保存されている。 ==被葬者と建碑の事情== 被葬者である高貞は正史には記録がないが、碑文によれば字を羽真(うしん)といい、没年から逆算すると太和13(489)年に渤海の修(現在の河北省・山東省一帯)に生まれた。高氏は正史にもその名が多く見られる北魏の名門貴族であるが、その中でも渤海の高氏は特に名門であったという。孝文帝の皇后・文昭皇后の甥に当たり、姉は宣武帝の皇后であった。 20歳の時、その有能を認められて秘書郎(皇室の図書を管理する職)に登用された。後に孝明帝が皇太子として立太子すると、太子洗馬職(皇太子の先駆けをする職)を命じられ、一族ともに権勢を誇った。しかし病を得て、延昌3(514)年4月26日に死去。享年26であったという。 高貞の夭折を知った孝明帝は極めて悲しみ、死後9年経った正光4(523)年に「営州刺史(長官)」の官職を追贈するとともに墳墓を整え、墓碑を刻むこととした。これが「高貞碑」である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高貞碑」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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