|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 高 : [たか] 【名詞】 1. quantity 2. amount 3. volume 4. number 5. amount of money ・ 高遠 : [こうえん] 1. (adj-na,n) noble 2. lofty ・ 遠 : [とお] 1. (adj-no) distant
高遠そば(たかとおそば)は、福島県会津地方の蕎麦(そば)。近年になり、その名称は発祥地とされる長野県伊那市高遠町に逆輸入された。 == 歴史 == 慶長16年(1611年)に江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠の四男として生を受けたが庶子だったため、元和3年(1617年)に信濃高遠藩3万石の藩主・保科正光の養子となった保科正之は、正光の跡を継いで寛永8年(1631年)に同藩の藩主となった〔保科正之公と高遠そば (伊那市)〕。寛永13年(1636年)には出羽山形藩20万石の藩主となり、寛永20年(1643年)には陸奥会津藩23万石の初代藩主となった〔。慶安4年(1651年)に正之は、異母兄弟である第3代将軍・徳川家光〔に後継の将軍・徳川家綱の補佐を厳命された。 蕎麦先進地の信濃国諸藩からの移封は江戸時代初期から頻繁にあり、正之もその1人であった。高遠藩3万石、山形藩20万石、会津藩23万石と石高が上昇し、家臣団や城下を削減することなく移封できた正之は、一方で蕎麦好きだったとされ、山形や会津に、そして第4代将軍・家綱の補佐をしていた江戸にも蕎麦を広めたと考えられている。高遠藩からは徳川将軍家に寒ざらし蕎麦を献上する慣例もあった。 正之が会津転封の際に一緒に連れて来た蕎麦打ち職人から続く伝統の蕎麦は、正之が初めて藩主となった高遠藩に由来して「高遠そば」と呼ばれ、福島県会津地方に根ざしてきた〔。 高遠町ではそばは郷土食として各家庭で脈々と途切れることなく受け継がれきており、「そばの打てない女性は嫁にはいけない」と言われるほどの日常食として根付いていた地域であるがゆえに、商売としては成り立ちにくく、長年、町内にはそば屋はほとんど存在しなかった。1997年(平成9年)、交流のため福島県会津若松市を訪れた長野県高遠町が、「高遠そば」という名称でそばが商売として成り立っている状況を目の当たりにし、1998年(平成10年)より、同町の飲食店関係者らによって組織された「高遠そばの会」が中心となって、会津の蕎麦屋の支援を受け「高遠そば」を地域活性化の為の事業として取り組むことを開始した〔〔伊那市観光協会「高遠そば 」より(2015年1月28日閲覧)。〕〔高遠町教育委員会『高遠風土記』ほおずき書籍株式会社 2004年〕。2000年(平成12年)には会津若松市と高遠町が親善交流都市となり〔姉妹都市・親善交流都市などの紹介 (会津若松市)〕、2006年(平成18年)に高遠町と合併した伊那市が同市との親善交流都市を引き継いだ〔。 以上のような歴史を根拠として、長野県伊那市は自らの市が「信州そば発祥の地」であると主張している〔信濃毎日新聞「信州そば『発祥地は伊那』 市など主張、イベントでPRへ 」より(2012年9月26日付、2015年1月28日閲覧)。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高遠そば」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|