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高部道平(たかべ どうへい、1882年(明治15年)7月 - 1951年(昭和26年)10月19日)は、囲碁の棋士。東京出身、方円社に学んだ後、本因坊秀栄門下となる。中国などとの囲碁交流を積極的に実施。裨聖会、棋正社などを結成。棋正社八段、棋正社分裂後に名人を名乗った。 ==経歴== ===訪中まで=== 豊橋藩士高部栄太郎の三男として東京に生まれる。16歳の時に碁を覚え、方円社に学ぶが、石見、九州、北海道、東北など諸国を巡り、名古屋で十五世井上因碩、高崎泰策との数十番の対局などによりめざましく技量向上。1903年(明治36年)に田村保寿の紹介で本因坊秀栄に入門し、飛び付き四段を許される。本因坊門下において野沢竹朝とともに新聞手合などで活躍した。 1907年に秀栄が没すると、田村と雁金準一の跡目争いでは田村を支持。1909年(明治42年)に2代目中川亀三郎(石井千治)らによる囲碁同志会に加盟。この年に朝日新聞の企画で、段位を取る前の瀬越憲作と向先で対局し4目負。1912年五段。1918年六段。 1909年から翌10年にかけて、朝鮮、満州を経て清国を訪問し、在留していた棋士中島比多吉初段が交流のあった段祺瑞の紹介で、当時中国最強であった張樂山、汪雲峰と対局、この2名とは向二子の手合になった。この時高部は、自分は本因坊に二子であり、日本のレベルの高いことを説いた。続いて段祺瑞の友人の楊士琦が南京から呼んだ金明齋、林詒書、王彦青、陳子俊らにも向二子とした。また中国では黒白2子ずつを盤上に置いてから対局開始する事前置き石制による対局が行われていたが、この時から日本で行われている自由布石法を取り入れるようになった。 続いて1911年には朝鮮京城に滞在し、そこから12年には台湾を訪問して帰国。その後も段からの招待で、1912年、15年、17年と訪中。1919年には、本因坊秀哉、広瀬平治郎、瀬越憲作、岩本薫の一行とともに訪中するなど、日中交流および中国のレベル向上に寄与した。また高部との対局で刺激を受けた中国棋士達が、後に少年時代の呉清源を育てる役割も果たしている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高部道平」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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